― 418 ―― 418 ―図を「光琳」というアイコンとして利用していたのだとすれば、自作と「光琳」を同一の画面に収めることで、自身と光琳の関係性を明示する意図があったのだろう。其一の例のように古典作品を引用したり、また引用した作品の痕跡を隠すことなく明示したりする事例は、江戸期に活躍した絵師を概観すると珍しいことではない。たとえば錦絵の先駆者であり大家である鈴木春信(享保10年[1725]~明和7年[1770])を見てみると、春信の「雪中相合傘」の構図は、礒田湖龍斎(享保20年[1735]~?)の「やつし源氏 御幸」で引用され、春信の「伊達虚無僧姿の男女」は喜多川歌麿(?~文化3年[1806])の「伊達虚無僧姿の男女」で引用されている。こうした引用元、いわゆる“本歌”に当たる作品の存在を隠さず顕示するという表現方法は、自身とその作品が“本歌”の系譜に連なっているという自認の表れであり、同時代の画壇における自身の立ち位置を確かなものにする宣言でもある。春信の例を見ても、たとえば礒田湖龍斎は春信に私淑し、春広という画名で春信風の作品を多数発表している。また歌麿も春信の後継者を自認しているが、春信没後の画壇で後継者としての地位を確立するためにも、春信作品の引用を明示するという行為には一定の効果が見込めたように考えられる。光琳を顕彰した抱一もまた、光琳百年忌の実施や『光琳百図』の刊行、そして光琳作品に倣った作品を制作することで、その画業の中に「光琳」というアイコンを積み重ね、自他ともに光琳を継ぐ者として名を馳せることに成功している。そして実質上の後継者であった其一もまた、抱一没後、抱一と同じように認められる必要があったのではないだろうか。たとえば「光琳を継ぐ抱一」という社会的立場を継いだ其一の仕事の中には、絵画制作の他に古画の鑑定があったことが知られている。『鈴木其一書状』(注13)に拠れば、注文制作品の進捗報告、古画購入の仲介依頼、表具制作における仕様の提案などと合わせて、宗達・光琳・抱一などの作品が鑑定に持ち込まれていることが記述されている。こうした鑑定依頼を受けるに当たって、其一は「光琳を継いだ抱一の後継者」として認知される必要があったのだろう。そのための手段として利用したのが「光琳」というアイコンであり、そこには抱一に見られたような思慕や憧憬を含んだ私淑関係ではなく、抱一亡き後、其一を取り巻く環境からの需要に応じ、ひとりの絵師として仕事を獲得していくという重要な意義があったと考えられる。ここまで本稿では、其一が画業全体を通して『光琳百図』を積極的に利用し、作品を通して光琳との関係性を明示していることを確認し、其一が自らの社会的立場を位置づけるために「光琳」というアイコンを利用した可能性について述べてきた。これ
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