― 419 ―― 419 ―らをふまえ、続いて其一が「光琳」というアイコンを使用した例であり、最も斬新に「光琳」を変奏した例として、第3期の「朝顔図屏風」〔図5〕(メトロポリタン美術館蔵)の考察を進めたい。本作は金地・群青・緑青に限定された色彩や、群生する花のモチーフからも光琳の「燕子花図屏風」〔図6〕(根津美術館蔵)の変奏として考えられている作品である。光琳の燕子花を“本歌”とすれば、其一が“返歌”に選んだ朝顔には何か理由があったのだろうか。最も推測に易い理由としては、其一と同時代に起こった変化朝顔の流行であろう。この流行は文化・文政期(1804~30年)と嘉永・安政期(1848~60年)の2回起こり、変化朝顔をまとめた図譜が多く刊行されるなど江戸は大いに盛り上がった。其一の「朝顔図屏風」が制作されたのはまさに第2次ブームの最中であり、光琳の燕子花に対し、当世風のモチーフとして朝顔を選んだ可能性も高いだろう。しかし「朝顔図屏風」に描かれる朝顔は流行した変化朝顔ではなく、いわゆる伝統的な、青く五弁の葯を持つ朝顔である。自身が生きた時代の象徴を以て光琳に応えるのならば、典型的な朝顔のイメージを選択する必要はない。そこで其一がモチーフに朝顔を選択した理由を他に求めるとき、ひとつの仮説として、画業第3期に多く描かれる能楽との関連性を考えてみたい。其一は能楽にも精通していたようで、第3期ではこれらを主題とする作品を多く遺している。さらに其一は物語を詳らかに絵画化するのではなく、「釣鐘図」〔図7〕(個人蔵)のように、物語を象徴するモチーフを留守文様として使用する例も制作している。この「釣鐘図」は釣鐘のみを描き説明的要素もほとんどないが、その装飾などにより謡曲「道成寺」を想起させる作品である。このように作品のモチーフをひとつに絞り、その背後にある物語を想像させる手法は、他ならない光琳の「燕子花図屏風」に用いられている。「燕子花図屏風」の背後にある物語は周知のとおり『伊勢物語』第九段の東下りの場面で、光琳は当該場面を絵画化するにあたり、八橋に居合わせた人々を描くことなく、金地の空間に群青と緑青の燕子花を規則的に配するという簡潔な方法を使って、観る者に物語を想起させたのである。これをふまえると、其一が「朝顔図屏風」を「燕子花図屏風」への“返歌”としたのであれば、その制作に際し、光琳と同じく単一の花のモチーフだけを使用し、その背後にある何らかの物語を鑑賞者に想起させる方法を採用したのではないだろうか。またここで想起される物語について、本稿では可能性として謡曲「朝顔」を提示したい。「朝顔」は文亀3年(1503)に所演の記録が残る(注14)ほか、観世流の謡本である光悦謡本にも所収された作品である。内容は、物語の舞台である朝顔の名所・
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