鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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注⑴ 大村西崖(編)『東洋美術大観』第五巻 審美書院、1909年、530頁⑵ 其一の住居については下記で詳しく検証がなされている。特に横山氏の考察では、其一が家督を相続した後しばらくして、文政3年までには雨華庵の西隣に住んでいたことを指摘している。辻惟雄「鈴木其一試論」山根有三(編)『琳派絵画全集 抱一派』 日本経済新聞社、1978年、67~72頁/河野元昭「鈴木其一の画業」『國華』第1067号 国華社・朝日新聞出版、1983年、9~25頁/横山九実子「鈴木其一考─伝記及び造形上の諸問題」『美術史』第136号 美術史学会、1994年、193~216頁⑶ 高橋佳奈「鈴木其一『癸巳西遊日記』解題」『美術史論叢』22 東京大学大学院人文社会系研― 421 ―― 421 ―⑷ 其一の画業およびその区分けについては、前掲注⑵の辻氏論文、同じく前掲注⑵の河野氏論文を中心に検討されている。また河野氏論文では下記のとおり分類される。第1期「画風成立期(叢書落款時代)」文化10年(1813)~天保3年(1832)、第2期「画風昻揚期(噲々落款時代)」、天保4年(1833)~天保14年(1843)、第3期「画風洗練期(菁々落款時代)」、弘化元年(1844)~安政5年(1858)。⑸ 萩原沙季「鈴木其一筆「夏秋渓流図屏風」についての一考察」『京都美学美術史学』第10号り”であり、長きにわたり「光琳」という手段を利用してきた其一なりの、光琳への返礼として制作されたという見解を提示したい。以上のように、本稿では其一が抱一没後「琳派の系譜に連なる絵師」と内外に示し、その社会的地位を担保する手段として、「光琳」というアイコンを意識的に利用したことを検証してきた。またその過程として画業初期から馴染みのあった『光琳百図』を利用したことや、「朝顔図屏風」のように『光琳百図』ないし光琳作品からの華麗な変奏があったことを確認した。「光琳」というアイコンを用いた再生産、ならびに「朝顔図屏風」などに見られる「光琳」イメージの再創造は、其一にとって「光琳に連なる者」であり、「光琳を顕彰した抱一の後継」として自身の立場を確立するための仕事であったのだろう。今後は其一が光琳に対して持つ、ある意味で“醒めた”理知的な姿勢を検証すると同時に、今回は触れることが叶わなかった同時代の琳派の絵師にも視野を広げ、同時代の「琳派観」についても考察を深めることを研究課題としたい。究科・文学部美術史研究室、2006年京都美学美術史研究会、2011年⑹ 前掲注⑵ 辻氏論文、71~72頁⑺ 竹内美佐子「其一私論─落款編年と琳派回帰」展覧会図録『琳派 美の継承─宗達・光琳・抱一・其一』 名古屋市博物館(編)『琳派 美の継承─宗達・光琳・抱一・其一』 名古屋市博物館、1994年、35~40頁

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