鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 428 ―― 428 ―向」〔図2〕と、隣り合う趺坐仏の頭光および身光の配色関係による「光背配色」〔図3〕の2つの視覚的特徴を有することが明らかになった(注2)。千仏図が示す2つの視覚的特徴の設計およびその配置は、窟や時代により異なり、窟空間の構想や各時代の特徴を示す重要な要素である。ここで莫高窟における千仏図の展開を確認しておきたい(注3)。莫高窟に現存する中で最初期にあたる北涼では、規則性を備える千仏図の基本的な描き方が既に完成しており、この図が他地域から受容したものであることが理解される(受容期)。続く、北魏では窟の中心に柱を配する中心柱(塔廟)窟の造営が盛んとなり、それに伴い千仏図の用いられ方が多様化した(発展期)。北魏末から西魏にかけては、千仏図の形式や設計に変化が見られ、窟の上部(天井)と下部(側壁)を繋ぐ役割が意図されるようになった(変容期)。北周から隋初期(隋第1期)にかけては、窟上部への配置が顕著となり、千仏図の形式および設計が単純化した(停滞期)。隋中期(隋第2期)に入ると、天井と側壁の広い面積に千仏図を配置する窟や、2つの視覚的特徴により精緻な対称性を示す千仏図が登場するなど、千仏図の用いられ方が再び多様化した(再興期)。しかし、隋後期(隋第3期)になると、側壁に配することが通例だった千仏図が天井にのみ配置されたり、千仏の設計が崩れたりするなど、千仏図が示す視覚的特徴の重要性が失われる傾向にあった(衰退期)。本論で対象とする初唐はそれに続く時代である。3.研究対象窟唐を初唐、盛唐、中唐、晩唐と分けるのは、もともとは文学史の区分として登場したものであり、それが美術史に転用された(注4)。現在の中国仏教美術史においても、この時代区分を用いることが慣例であり、莫高窟の分期にも適用されている。本論で用いる「初唐」もその慣例に従う。『敦煌莫高窟内容総録』では、47の窟が「初唐」に位置付けられている(注5)。他方、樊錦詩氏らの論考では、初唐と盛唐に相当する窟を唐前期とし、造営年代が分かる窟を基準としてさらに4期に分けている(注6)。初唐はおよそ第1期、第2期に当たり、大枠で『敦煌莫高窟内容総録』に記載される初唐と合致するが、隋や盛唐に位置付けられる窟もある(注7)。樊氏らの提示する分期については細かい点では異なる見解も提示されているが、大筋で研究者の同意を得ており、この分期を用いて論じられることが多い(注8)。本論では、樊氏らが提示した唐前期第1期、同第2期に含まれる窟を対象として、千仏図の特徴を確認していく。

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