― 430 ―― 430 ―薩」をはじめ、その芸術性が高く評価されている(注13)。この窟は「隋第三期諸窟を母体」とするが、細部には新たな要素が登場したことが知られ、北壁には宝池を伴い西方浄土の阿弥陀をあらわしたと考えられる樹下説法図、南壁には弥勒下生の情景をあらわしたとされる樹下説法図が配置されるなど、浄土の情景を示す図像が多く採り入れられている(注14)。第57窟では、天井4披と側壁3面に千仏図が描かれおり、南北壁の中層部を除き、△型設計である〔図4〕。莫高窟では伝統的に側壁の上辺あるいは天井の下辺に天宮欄干や伎楽天を配置し、地上と天上に属する空間を明確に分けていたが、第57窟では文様が連なる連珠文帯が境に配されるのみである(注15)。天井最上部の藻井周囲に飛天が配置されており、窟全体が地上に属する空間として構想されたことが理解される。この点は、天井と側壁上部に△型設計の千仏図が配置され、天井と側壁が連結する表現となっていることからも確かめられる。△型設計の千仏図が示す視覚的特徴は、下から上に収束する、あるいは上から下に広がる表現と捉えることができる。どちらの表現が意図されたかを考える上で示唆に富むのが、南壁・北壁に配置された樹下説法図である。千仏図に囲まれるこの2図の本尊の尊格についてはいくつかの見解が提示されているが、北壁が阿弥陀仏、南壁が弥勒仏と捉えることが妥当と考える(注16)。弥勒は56億7千万年後にあらわれる未来仏であり、莫高窟の北朝期窟では悟りを開く前の菩薩の姿であらわされ、窟の上部に配置することが通例であった。また、隋第2期の第419窟天井などでは、兜率天宮中に坐す姿で描かれており、修行や礼拝によって、弥勒が存在する兜率天へと上生することが意図されている。他方、唐前期においては悟りを開いた仏として表現されることが多く、下生した弥勒が説法をおこなう図へと変化した。つまり、第57窟に採り入れられた△型設計の千仏図は、上から下に趺坐仏が広がる表現とすることで弥勒仏や阿弥陀仏が天上から地上に下りてきたことを視覚的に示す効果が意図されており、窟空間に浄土を体現する役割を担っていると判断される。なお、樹下説法図の左右に配された千仏図の設計は南北で異なり、双方の性格の違いがあらわされている(注17)。第57窟の△型設計の各千仏図を比較すると、西披以外の天井3披と側壁上部の千仏図は、西披ほど精緻な描写ではなく、幾何学的視覚効果は減衰している。このことは、西披とその他では描き手(画工)が異なること、西披の千仏図を手本としてその他の千仏図が描かれたこと、その他を担当した画工は△型設計の描写方法について完全には模倣できなかったことを示唆する。三角形が連なる幾何学的視覚効果は、第57窟以
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