鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 438 ―― 438 ―㊵ 中世セルビア王国の肖像画研究─寄進者とその家族─研 究 者:実践女子大学 非常勤講師  嶋 田 紗 千はじめに中世セルビア美術は、コンスタンティノープルとローマの狭間という立地条件の下、両者の政治的、経済的、宗教的、そして文化的な影響と選択の上に成り立っている。9世紀後半にキリスト教がもたらされるが、受容にはかなりの時間と労力がかかった。その普及を劇的に推進したのが、ネマニッチ朝(1166-1371)の創始者ステファン・ネマニャ(約1113-1200年)と息子の修道士サヴァ(のちに聖サヴァ、約1175-1236)である。主にセルビアの領域は、北はサヴァ川とドナウ川の間(現在のセルビアの首都ベオグラードあたり)、南はアドリア海とエーゲ海の間、東はティモク川とストルマ川の間(現在のブルガリア西部)、西はヴルバスとツェティニェの間(現在のセルビアとモンテネグロの西側)であるバルカン半島の中央部である。アドリア海沿岸地域は対岸のイタリア半島のローマ、ヴェネツィア、プーリアの宗教と文化の影響を受けた。一方、バルカン半島の内陸地域はビザンティン帝国の政治と文化の中心地コンスタンティノープルやテサロニキ、アトスに関心が向けられていた。東西の帝国の間にあるセルビアは、時勢に合わせて東または西を支持してきた。1217年にネマニャの息子ステファンがローマ教皇によって王の称号を受け、初代戴冠王となる一方、1219年にコンスタンティノープル総主教より独立自治正教会を許され、セルビア正教会の大主教にサヴァが任命される。そして経済は発展し貨幣を造るようになった。そのような状況下で文化芸術も豊かになり、支配者たちは己の偉業を残すために聖堂を寄進して、コンスタンティノープルやテサロニキから画家を招いて寄進者の肖像画を積極的に描かせた。中世セルビア王国の肖像画は主に聖堂のナオス(身廊)南西壁、またはナルテックス(前室)南東壁の漆喰にフレスコで描かれる。聖堂を建立した支配者や貴族が、寄進者として聖堂の模型をキリストへ捧げる身振りで表現される伝統がビザンティン美術より受け継がれた。特にキリスト教の普及を推進したネマニッチ朝の王たちは、自らの墓所として聖堂及び修道院を建立し、聖堂内に肖像画を描かせ、死後その下に埋葬された。例えばミレシェヴァ修道院の主聖堂にある寄進者像は、ヴラディスラヴ王が王冠を被って模型を手に持ち、聖母に導かれる姿で描かれ〔図1〕、またソポチャニ修道院主聖堂ではウロシュ一世王が祖先に導かれ、二人の息子を伴い一列で表され

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