― 439 ―― 439 ―〔図2-2〕、そしてデチャニ修道院ではデチャンスキ王がネマニッチ家の主要な成員と共に家系図として表現される〔図3〕。このように亡くなった祖先や子孫を大勢率いて神聖な聖堂内に描かれるケースが多く見られる。ビザンティン帝国において寄進者像は皇帝一人または皇后を伴って描かれるのが通例で、先の皇帝と共に描かれること(注1)があっても一族を聖堂に描くということは行われていない。そもそも寄進者像の意味は、敬虔な信者が神へ寄贈したことを示すものであり、権威を示すものではない。しかし、時代によっては寄進者自身のプロパガンダとして機能することも確かである(注2)。セルビアにおける寄進像研究は、1930年代に緻密な調査をしたラドイチッチより体系的な研究が行われたことで関心が高まった(注3)。しかし1940年代に社会主義国となったため、キリスト教美術研究の勢いは低迷するが、1960年代以降再び研究は盛んになり、各修道院のモノグラフが続々と出版されるようになる。各モノグラフでは装飾プログラムについて精力的な研究が行われた。それは寄進者像研究に特化したものではなく、フレスコ画の制作年代を探る研究の一つとして寄進者の特定、服装やレガリア(王冠や笏など王権を象徴するもの)から歴史的な事実と照らし合わせて詳細な年代を追究するものである(注4)。また、図像の祖型について研究されてきた(注5)。(1)ミレシェヴァ修道院ヴラディスラヴ王の寄進者像(1223年頃)〔図1〕本研究では、中世セルビア王国における寄進者の肖像画の分析を行い、その由来について追究することを目的とする。先行研究で見過ごされてきたキリスト教以前の宗教研究にも触れながら考察を行う。1 寄進者像についてネマニッチ朝の創始者はステファン・ネマニャ(在位:1171-1196年)で、その息子ステファン・ネマニッチ(在位:1196-1228年)はセルビアで初めてローマから戴冠を受けて王となったことから初代戴冠王と呼ばれる。その後を継いだのが初代戴冠王の息子ステファン・ラドスラヴ(在位:1228-1233年)である。彼らはヒランダル修道院、ジッチャ修道院、ストゥデニツァ修道院等を建立しているが、生前に描かせた肖像画が現存しておらず、現在3人ともストデニツァ修道院に埋葬されているため、本稿では取り扱わない。ステファン・ヴラディスラヴ(在位:1233-1243年)は、初代戴冠王の息子でラドスラヴの弟である。ミレシェヴァ修道院主聖堂を建立し、そこに埋葬される。
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