鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 440 ―― 440 ―(2)ソポチャニ修道院ウロシュ一世王の寄進像(1270年頃)〔図2〕(3) ジョルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院ドラグティン王礼拝堂ドラグティン王の王冠を被ったヴラディスラヴ王は左手で聖堂の模型を持ち、右手を聖母に握られ、キリストへ導かれる。キリストは玉座に座り、右手で王に祝福を与える。描かれた時は、王は列聖されていなかったために光背はのちになって描き足された。この図像の真上には「キリストの復活」の図像が、また近接する壁に祖先と兄弟の図像が描かれる。ステファン・ウロシュ一世(在位:1243-1276年)も初代戴冠王の三番目の息子であるが、母親が先の二人の王とは異なり、エンリコ・ダンドロの娘アナ・ダンドロである。ブルガリア王国が1236年にモンゴル軍に征服されてキプチャク=ハン国の支配下となった折にブルガリア王国の血を引くヴラディスラヴ王の地位が危ぶまれ、ウロシュ一世は若干20歳でネマニッチ朝の第5代国王を引き継いだ。聖母と寄進者ウロシュの間には、修道士姿の祖父(ネマニャ)と父(初代戴冠王)、ウロシュの後ろには彼の息子ドラグティン王子とミルティン王子が一列になってナオスの南西壁に描かれる。南壁の祖先とウロシュの真上には「磔刑図」が、二人の息子の上には「聖母の眠り」が描かれる。フレスコ画の状態があまりよくはないが、明らかにウロシュとドラグティンはビザンティン皇帝の王冠と服装を身に着けている。セルビアで皇帝の称号を得るのはドシャン皇帝(在位:1346-1355年)とその息子ウロシュ皇帝(在位:1355-1371年)しかおらず、皇帝の姿で描かれることは奇異ではあるが、ソポチャニ以降寄進者は皇帝のような姿で表されるようになる。ソポチャニ修道院は、1689年にオスマン帝国によって放火され、鉛の屋根が取り除かれた。その後、約200年間野晒しにされたためにフレスコ画の損傷が激しい。改築されたのは1926年で本格的な修復が始まったのは1951年からである(注6)。寄進像(1282-1283年)〔図4〕ステファン・ドラグティン(在位:1276-1282年)は、ウロシュ一世の息子で、礼拝堂の寄進者である。ドラグティンの祖父ステファン・ネマニッチ(初代戴冠王)によって主聖堂は建立されたが、度重なる戦争で損傷を受けたためにフレスコ画は現存しない。小さい礼拝堂の南壁にキリストが玉座に座り、その右に寄進者の祖先の列(曾祖父、祖父、父、母)、左の西壁に寄進者とその妻子、弟夫妻が並んで描かれる。南壁

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