鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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㊶ 小早川秋聲に関する基礎的研究─国防館壁画を中心に─― 451 ―― 451 ―研 究 者:茨城県天心記念五浦美術館 学芸員  塩 田 釈 雄小早川秋聲(1885-1974)は、数多くの戦争画を手掛けた日本画家として知られる。満州事変勃発後すぐさま従軍し、昭和8年(1933)3月には「満州時局写生画展覧会」を開催するなど、画家の中でもかなり早い時期から戦争画制作に携わった。その後も度々従軍し、「日本刀」(1939年、京都霊山護国神社蔵)、「出陣の前」(1944年、個人蔵)、「國之楯」(1944年、京都霊山護国神社蔵)などの代表作を残した。戦後も制作を続けたが、大きな公募展への出品は殆ど無くなり、画家としては一線を退く形となる。いずれも他の画家が取り上げないような珍しい画題選択に特徴があり、特に戦死した兵士の遺体そのものを扱った「國之楯」は陸軍から受け取りを拒絶されたという曰く付きの作品である。秋聲の戦争画については、これまでも「國之楯」を中心に研究が進められてきた。また秋聲の画業全体は日南町美術館と松竹京子氏が緻密な調査を行っている。本稿では、先行研究を踏まえながら、秋聲の戦争画制作であまり語られてこなかった九段国防館壁画(現・靖国会館、以降国防館壁画とする)について考察する。陸軍省から制作が委嘱された作品であり、かつ絵葉書が制作されて一般にそのイメージが流布したという点からも、秋聲の一連の戦争画制作を考える上で重要な作品である。全9点から構成される国防館壁画は現在所在が不明であるが、幸い手掛かりとなる下図の一部(個人蔵)が残されている。また当時流行した「壁画」という画面形式は、洋画家のみならず日本画家も多くを手掛けたことが指摘されているが、本作もそのひとつに位置づけることができるだろう(注1)。国防館壁画が壁画として果たした機能にも着目しながら、秋聲の戦争画制作について改めて考えたい。小早川秋聲について─国防館壁画に至るまで小早川秋聲(本名、盈麿)は、鳥取県日野郡にある真宗大谷派光徳寺の住職・小早川鐵僊と九鬼こうの長男として生まれた。明治38年(1905)に谷口香嶠に師事して本格化に画業をスタートさせたが、同年、日露戦争に際して従軍し、更に明治40年(1907)には一年志願兵として騎兵連隊に入隊するなど画家としては特異な経歴を持つ。大正3年(1914)に第8回文展で初入選を果たした後、大正5年(1916)に山元春挙門下生となり早苗会に所属し、以降は官展と早苗会を中心に活躍した。秋聲の画

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