鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 452 ―― 452 ―業で特筆されるべきは、国内外の旅行が非常に多い点である。国内の津々浦々、写生旅行に赴いており、例えば大正9年(1920)に敢えて極寒の北海道に約二ケ月間旅行しており、同年、スケッチをまとめた『蝦夷地の旅から』を発行している。国外には、明治42年に水墨画学習のため中国に渡り、大正6年(1917)に再び中国へ、大正9年にはインド、ヨーロッパ、エジプト等を遊歴して大正12年に帰国後、官展等で海外風景に取材した作品を多く出品した。例えば、帰国後の官展復帰作となった第5回帝展出品作「ヴェニスの宵」(1924年)は、画家が10日程滞在したヴェニスの水郷風景を描いた作品である。持ち前の体力と、現地で素早く風景や人物をスケッチする能力は、後に従軍画家として活躍する素地を培ったと思われる。このように旅の画家という印象の強い画家であったが、満州事変を契機として、『銃後』等の著者で知られる桜井忠温少将と昭和6年(1931)に満州を訪れて以降、度々従軍するようになる。愛新覚羅溥儀との面識があった秋聲は、翌年も満州国設立に際して国賓として再び満州に渡り、このときも従軍している。従軍体験をもとに、氷点下40度にも及んだという満州里の警備にあたる歩哨兵を描いた「護」(1933年)や、現地での兵士の活躍を描いた「護国」(個人蔵、1934年)等を帝展に出品しており、前者の制作について秋聲は、「水麗山華を楽しむで描写した、それとは余りにも異なる所に非常時にある私共の真意として、軍国精神即国防平和の護としてこんなものが自づから製ママ作された」と語っており(注2)、旅の画家であった秋聲が今までのような「水麗山華を楽しむ」形での作画が困難になった実情が窺える。その後も官展には「護国(御旗)」(1936年)、「軍国の秋」(1937年)、「虫の音」(1938年)等を出品し、昭和14年以降の官展出品作には「松下村塾」(1939年)、駱駝を描いた「大地は招く」(1940年)等、戦地を直接に描写したものではないが、象徴的な戦争の表象と捉えられる作品が見られ始める。国防館壁画の制作は、第二次世界大戦が勃発した昭和14年頃から開始された。国防館壁画概要国防館壁画に関する事項をまとめると以下のようになる(注3)。昭和14年(1939)秋に陸軍省から九段国防館銃後室の壁画制作を依頼され、翌昭和15年6月に取材のため2か月ほど北中支、外蒙古方面に赴いている。同年、完成した5作「輝く日本」「感謝」「祖国に祈る」「銃後の夢」「夢に通う」は12月に京都華族会館にて内覧が行われた。久邇宮邦彦王妃俔子や川西實三京都府知事が訪れるなど注目を集め、秋聲の熱心な制作に賛同したという愛国婦人会京都府支部が皇紀2600年奉祝記念事業として国防館に

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