― 453 ―― 453 ―「輝く日本」〔図1〕「感謝」〔図2〕献納するという形をとった。内覧には多くの来館者があり、絵の前で敬礼をしたり涙を流したりする者がいたという。翌昭和16年1月には献納式が執り行われ(注4)、2月には残り4作の執筆のため満州に渡る。昭和17年に完成した「和光」「偲べ戦線」「誉れの家」「真心」は京都各宗仏教婦人会連盟から陸軍省に献納されるという形をとり、これらは東本願寺内議事堂で内覧された。昭和16年12月30日消印の副見喬雄台湾総督府交通局総長宛書簡には、「次ぎ次ぎニ記録画之執筆ニとりかかり本年も二度大陸へ出張いたし目下ハ陸軍省より嘱され居候九段国防館の壁画第二作(四点)ニとりかかり居候」とあり(注5)、従軍画家として精力的に活躍する中での制作であった。国防館壁画は現在所在不明だが、昭和15年内覧の展覧会評によれば第一作「輝く日本」の法量が「竪五尺五寸、横七尺五寸の紙本」とあるため、およそ縦210×横285cmの大きさと分かる。愛国婦人協会および京都各宗仏教婦人会連盟から発行された国防館壁画の絵葉書を見る限り、「輝く日本」は他の壁画と画面の縦横比が異なっており、「感謝」も「第一作と同寸であった」という当時の記事と矛盾するが、9点の壁画はおよそ同じサイズに統一されていたとひとまず理解したい。各壁画を順に見ていく。皇居正門石橋と伏見櫓を瑞雲たなびく空のもと描く。9点の壁画のうち唯一の風景画である「輝く日本」が特別な一枚であったことは、内覧の展覧会評で「第一作」とされ、「輝く日本」を「中心として銃前、銃後の護り図」が展示されたと表現されていることからも分かる。一家が敬礼を行う様子が描かれる。家の主は出征中であるのだろう。妻は愛国婦人会京都支部の襷を掛け、足下には慰問袋が置かれている。愛国婦人会は明治34年に真宗大谷派と縁のある奥村五百子が創始した団体で、戦没者遺族や傷痍軍人等に対する様々な生活支援を行った。当時、愛国婦人会が発行した絵葉書には「せめて家族へ感謝の奉仕」をスローガンに掲げたものがあり、画題の「感謝」とは銃後としての在るべき報国の姿を示したものと解することができる。また国防館壁画の陳列がどのような配列を取ったか不明だが、「輝く日本」が国防館壁画の中心的な役割を担い、かつ「輝く日本」「感謝」2図の背景色が青に統一されていることを踏まえれば、「感謝」の対象は前線の主だけでなく、皇居に向けられているとも読める。「感謝」下図〔図
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