― 456 ―― 456 ―国防館壁画の機能と秋聲の戦争画制作における位置づけ国防館壁画の最初の5点が内覧された際、当然ながらそれらは一連の作品として鑑賞者に理解された。美術評論家の豊田豊の内覧評を取り上げると、豊田は5点の絵画の構成に「一種の映画的効果」を見ており、「祖国に祈る」に触れながら「軍旗を擁して地に額づき、銃剣を捧げて祈る兵士達の顔面表情や挙止の真剣さ、切実さ、然もそこにある秋聲氏独特の悲痛な叙情詩味―斯くして五面の壁画は昂まる劇的シーンのうちに終局となる」と評している。5点の壁画が有機的に結びついたとき、国防館壁画は前線銃後、老若男女すべてを「輝く日本」への報告精神のもとに一致団結させる装置となった。さらに豊田は「蒙古襲来絵詞」やドラクロアを例に挙げながら、戦時の美術は「直接的感激の詩情感に溢るる浪漫的精神」が「尊い」とし、国防館壁画に秋聲芸術に従来からあったという「抒情ロマンシズム」の表れを見ている。秋聲は国防館壁画以前から、関東軍司令官邸壁画食堂「満蒙の天地」(1934年)や同官邸貴賓室壁画「満家の天地」(1935年)、横浜東本願寺壁画(1938年)など積極的に壁画制作に携わっている。特筆すべきは、その嚆矢ともいえる「祖国日本」(1932年、宮崎県立美術館蔵)である。県からの委嘱で県庁貴賓室壁画として制作され、秋聲いわく、「皇祖発祥の霊地たる吾々民族の祖国をより輝やかしくプロパガンダしたい」との知事の意向があったという(注9)。三枚の画面から成る「祖国日本」は、画面中央に天孫降臨の舞台である「高千穂峡」を、左右に「霧島山」「阿波岐が原」を配置する。既に秋聲は、三枚の画面で作品を構成する「盲目の春」(1925年)や「未来」(1926年、個人蔵)を官展に出品している。こうした「三幅対」は当時の官展出品作にしばしば見られる形式で、同じ春挙門下の川村曼舟「竹生島」(1916年)、「日本三景」(1917年)等が先行する。また「護国」(1934年)〔図15〕は、兵士たちの野営図を中心に複数の画面を周囲に配置した多翼祭壇画のような形式をとった。兵士たちの様々な活躍が描かれるが、中央最上部には日の丸を配置しており、これによって兵士たちが祖国を護るために出征していることが図解される。国防館壁画も「輝く日本」が他の壁画に対して象徴的な役割を果たしており、国防館壁画の試みはこれまでの制作の延長線上に位置づけることができるだろう。秋聲は戦争画について述べる文章の中で、「私共は戦時に生活し直接に戦争に激動され其感激の中から彩管を執って軍事画を後世に残したことはただに新歴史画として発表する丈でなく精神教育上に於いても無意味でないと信ずるのである」と語っており(注10)、秋聲が戦争画に「教育」的効果を見ていたことが分かる。壁画と戦争画の関連性については藤田嗣治の例でもしばしば指摘されるが(注11)、壁画制作に携わってきた秋聲の目には、国防館は画家
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