注⑴ 長嶋圭哉「「日本壁画」の古典化をめぐって─法隆寺金堂壁画と近代日本画」五十殿利治・河田明久編『クラシック モダン─1930年代日本の芸術』せりか書房、2004年。「壁画」とは本来建築の壁そのものが支持体となる移動不可能な絵画を指すことが多いが、本稿でいう壁画と― 457 ―― 457 ―が「教育」的目的を達成する上でこれ以上ない場所として映ったに違いない。結び─日本画家が描く戦争画秋聲は日本画家として戦争画を手掛ける上で、「何を描くか」という問題に直面していたようだ。戦争画について語る文章の中で、西洋における戦争画の歴史を念頭に置きながら、日本では「後三年絵巻」や「蒙古襲来」絵巻などの名作があるものの、現代では「日本画の世界が縮められたやの感」を吐露している(注12)。日本画家としての見地から、「銃後戦士の一人としてよく深く時代に目覚め認識して働く可き」と宣言し、「せまい花鳥画へ自からが縮めていつた」現状を打破することを目指した秋聲にとって画題の問題は必至であった。「今や徒らに古典的に堕してゐる時代ではない」と述べる秋聲は、従軍画家として戦地を目の当たりにする中で、他の日本画家とは違う戦争画を模索した。そうして、「戦時に生活し直接に戦争に激動され其感激の中から彩管を執って軍事画を後世に残」すという使命感に燃えた画家がたどり着いたのは、「日本刀」や「出陣の前」といった象徴的な戦争画であった。そこには、油絵具と比較してどうしても日本画が迫真性に劣るというメディウムの問題が自ずと画題を限定したという事情も考えられるが、複数枚の絵画から構成される九段国防館壁画のように、前線と銃後のあるべき姿を描きつつ、両者を結ぶ国民総動員としての絵画を描くことは画家の要求を満たすものであっただろう。従軍中、秋聲は戦死した兵士の遺品から寄せ書きされた日章旗と子供の手紙を発見して感極まったというエピソードを語っているが(注13)、国防館壁画はそうした画家の実体験の上に成り立っている。秋聲の戦争画は、直接的な戦場の描写ではなく、国民の精神の在り方を示すことを目指したのだろう。その意味で国防館壁画は、「國の楯」に至る後の戦争画制作にひとつの指針を与える契機となったと考える。しかし、国防館壁画が前線銃後が慎ましく祈りを捧げる姿を描いたのに対して、わずか2年後の「國の楯」では祈りを捧げる役割が完全に鑑賞者へ委ねられたとき、日毎に悪化する戦局でもはや戦争画も変貌せざるを得ないほど、死は切実な問題となっていた。
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