鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 462 ―― 462 ―㊷ 平福穂庵によるアイヌ絵についての研究─先行作例および同時代文人との関係を中心に─研 究 者:秋田市立千秋美術館 学芸員  村 田 梨 沙はじめに平福穂庵(1844~90)は秋田県角館町出身の日本画家である。近年、古田あき子氏による渡邊省亭研究を通じて穂庵と省亭2人の浅からぬ交流の一端が示され(注1)、さらに昨年は没後130年を記念して秋田県立近代美術館において「平福穂庵展」が開催されるなど(注2)、その存在や画業についての再検証、再評価への捉え直しは始まったばかりである。穂庵の画業における集大成は明治23年(1890)に第3回内国勧業博覧会に出品した「乳虎」(秋田県立近代美術館蔵)であるが、穂庵の生涯において複数回、数年間を過ごした北海道・函館で学び得たもの、特にアイヌ絵制作は穂庵の画業展開を考える上で重要であることを提起する。現状の記録では明治5年(1872)の渡道が最初であるが(注3)、本研究ではアイヌ絵が大きく展開した明治10年代の活動を焦点に、同時代の画人たちとの交流や穂庵自身の作品展開および周辺からの影響関係について示す。1、明治10年代の函館滞在時の活動 穂庵とその周辺明治14年(1881)9月、穂庵は秋田への明治天皇御巡幸に立会った後、後援者であった瀬川安五郎(1835~1911)の依頼を受けて北海道入りしたとされている(注4)。現存する作品から推察するに主たるアイヌ絵の制作時期は明治15年から明治16年12月までの滞在中で、滞在先の1つとして『函館新聞』の売り捌き所であった愛新軒を経営していた種勘七の元に居候していたという先人の記憶を元にした記録が確認できる(注5)。瀬川の用向きではあるがこれから述べる酒宴や書画会へ参加している様子からは穂庵の自由な暮らしぶりが窺える。また、穂庵が函館に滞在した明治10年代、特に札幌や函館では、諸藩出身の絵師たちが開拓使に雇われた「画工」として活動している(注6)。今回の資料調査により、同時期に函館に滞在していた沢田雪渓(1844~?)と穂庵の関係が重要であると推察する。以下、資料別にその交流の一端を見ていく。1-1 『巴珍報』の挿絵明治15年から16年にかけて穂庵の函館での活動を裏付ける資料として、四六版袋

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