鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 463 ―― 463 ―綴、本文10枚前後の雑誌『巴珍報』の挿絵はこれまでも紹介されてきた(注7)。明治15年10月4日に第1号が発売され、以後月に2回の発行を基本とし、一般読者からの投稿も募り、洒落を好む風流人の多さが窺える。特に明治16年1月4日刊行の第7号の附録として当時を代表する10人の芸妓たちの似顔絵をメインに、都々逸とともに載せた『名花十優』は実に華やかである。本誌発行に関わったのは杉浦嘉七(4代)(1862~1921)、岡野敬胤(知十)(1860~1932)、そして穂庵の3人である(注8)。明治15年12月刊行の第6号掲載には3人が馴染みの芸妓たちと大騒ぎした忘年会の様子が穂庵による挿絵〔図1〕とともに掲載され、親しい間柄であることが想像できる。そして注目すべきが新春第7号の巻頭に掲載されている挿絵〔図2〕である。落款印章より「海老」は穂庵、「橙々」は沢田雪渓によるものである。『巴珍報』全15号を管見した限り、共作の形はこの挿絵のみである。雪渓は明治12年(1883)の開拓使時代に札幌本庁民事局勧業課の画工として雇われていたが、14年に一端東京へ戻り、開拓使廃止後の明治15年(1886)6月頃に函館県勧業課の画工となっている(注9)。1-2 『函館新聞』から見る書画会『函館新聞』は明治11年(1878)1月7日に発行された民間の手による新聞である。現在の新聞の約半分の大きさ、2枚両面刷りの4面であった(注10)。穂庵の函館滞在中に開催された書画会の様子が報告されている。明治15年10月28日付の書画会と題した記事には次のようにある。「前号にも一寸記載せし明廿九日谷地頭浅田屋にて浅田屋老人が会主となり開会せる書画会は古書画古器物の展観ばかりでなく碁将棋の席とも設け其道に入手の方々にも出席され席上揮毫は碧光霞浦嘯山穂庵雪渓狂濤の諸先生其他平常文墨を嗜まるゝ風流の方々には挙って列席され揮毫さるゝよし[後略](本文中下線は筆者による)」。さらに、この2日後の10月30日付の記事では、会場の様子や各人が描いた画題について次のように報告している。「[前略]当日楼上広間を新古書画展観の席とし次の二間を揮毫席とし少し隔てし一室を囲碁将棋の席とし離れの座敷は又古書画古器物を陳列したり席上揮毫には雪渓子の花鳥殊に石榴は其長技か穂庵画伯の人物中にも蝦夷人の図はその風神を写して真に迫る[後略](本文中下線は筆者による)」。このように穂庵と雪渓だけでなく、函館滞在および来遊画人をふくめた文化人同士が書画会で交流を深めていたと言えるだろう。特に10月30日付けでは、穂庵のアイヌの図が「真に迫る」と記述している点が興味深い。この他にも函館新聞には月次画会の記事も確認でき(注11)、画を心得た者同士が交流し発表する場は定期的に設けられていたといえる。

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