鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 466 ―― 466 ―寫」とあるように注文を受けて制作したものだと想定できる。このように明治16年に様々な季節や場面でのアイヌの人々を描いて経験を積んだことで、穂庵は自分自身の好みや得意な人物が絞られてきたのではないかと考える。明治17年(1884)に出品した「北海道土人之図」は、秋田県立近代美術館および仙北市角館町平福記念美術館が所蔵する背景がなく、鮭漁から帰る親子3人のみを描く作品〔図7〕と近似していたと想定したい。2-3 上京後のアイヌ絵制作についてこれから見る3点にはここまでに紹介してきたものとは異なる共通点がある。それは背景にアイヌの住居が描かれている点である。明治22年(1889)11月『風俗画報』第10号掲載の「アイノ人住居の図」〔図8〕である。本文には穂庵が「実地目撃」した所と杉山輯吉によって同誌へ以前に投稿された図を参考にしたとある。アイヌの人々の住居(チセ)と高床の倉が描かれ、周辺にはそこで暮らす人々を描く。この異なる2つの建物がセットで描きこまれているのが、「北海道土人之図」(個人蔵)〔図9〕である。画面左下には「穂庵写」の落款と「平芸」(朱文方印)、「穂菴」(白文方印)の2顆。本作に附属する由来書きには、上京中最晩年の制作とあり、明治20年代が想定できる。画面には鮭漁から帰る親子4人の姿を手前に、奥行きを表現した画面上部に建物を描きこんでいる〔図10〕。もう1点が「昆布干図屏風」(市立函館博物館蔵)〔図11〕である。本作は「平耘之印」(白文方印)および「穂菴」(朱文方印)のみで年紀はない。制作年について明治16年頃ともされているが(注16)、俯瞰した構図と水墨の伸びやかな表現が単なるアイヌ図を超えた風景画のような印象に仕上がっている。何より「北海道土人之図」(個人蔵)以上に『風俗画報』掲載挿図の建物と近似していることから両者の制作年は近いものと想定する〔図12〕。明治20年代も穂庵はアイヌ図を描いていたのである。3、穂庵と屏山の関係幕末から明治にかけてアイヌ絵を描き、著名であったのが平沢屏山(1822~76)である。従来、穂庵と屏山との関係として指摘されてきたのが、屏山の代表作である「蝦夷十二ヶ月風俗図屏風」(天理大学附属図書館蔵、市立函館博物館蔵)のうち「正月年礼図」に酷似した穂庵作品の存在である(注17)〔図13〕。杉浦嘉七(3代)が屏山の支援者であったことから穂庵にも屏山の作品を直接見る機会があり、それに感動し、アイヌ絵を制作するきっかけになったと言われている。明治5年の渡道時には屏

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