― 467 ―― 467 ―山は存命であったが、この時に2人が会ったと考えるのは難しいだろう。当然のことながら、屏山の没後であっても道内には屏山の弟子にあたる木村巴江(生没年不詳)らがおり、巴江が所蔵していた粉本などから穂庵や雪渓といった滞在中の画人たちが着想を得たということも考えられるのではないだろうか。その一端を「鹿猟図」と題された作品から見ていく。扇面に描かれた「鹿猟図」(東京国立博物館蔵)〔図14〕は平沢屏山作とされる1点である。木の下で身を伏せる男が鹿をおびき寄せるため、鹿笛を吹いているようである。大英博物館には屏山の粉本が所蔵されており、画面左の木の下で身を伏せる男以外に鹿に向かって弓を構える男が描かれ、さらに鹿が2頭加えられている。この図に基づき制作されたと考えられる沢田雪渓「鹿猟図」(スコットランド博物館蔵)も確認されている(注18)。そして、先の秋田県立近代美術館の展覧会において、穂庵「アイヌ鹿狩図」(個人蔵)〔図15〕が紹介された。本作は雪渓作品を反転した構図、2人のうち弓を構える男は矢の先を地面に向けたままである。鹿の姿はにじみによるシルエットで表現され、まだ距離は遠いようである。さらに詳細を見ると、屏山粉本を元にした雪渓作品には鹿をおびき寄せる鹿笛がはっきりと見えるが、屏山による扇面画および穂庵作では、身を伏せる男の手は口元で組まれているものの、木製の笛は描かれていないように見え、写しくずれと考えられる。屏山粉本の流布経路は不明であるが、やはり先ほど触れた書画会において画家同士の交流が深まり、巴江が所蔵していたであろう屏山粉本が雪渓や穂庵の目にも触れたと考えられる(注19)。また、穂庵による先行作例の写しとして、内容の豊富さと正確さで広く流布した、村上島之丞(1760~1808)「蝦夷島奇観」を写した図がお菓子の包装紙として使われていたという証言もあり(注20)、積極的な模写による学習が想定できる。また、これまで本画以前の穂庵によるスケッチはほぼ皆無であったが、仙北市角館町平福記念美術館蔵の行李に入ったスケッチや模写といった資料群の一冊中に、アイヌの人々を描いたページがあることを確認した〔図16〕。スケッチの年代を特定する書き込みはないが、馬にのる人物や冬の防寒着を着用し、ゴマフアザラシを背負う男性が確認できる点などアイヌ絵学習の展開を考察する上で貴重な資料である(注21)。4、おわりに穂庵は北海道の滞在中に多数の先行作例、そして同時代画人との交流から刺激を受け、徐々に穂庵らしいアイヌ絵へと展開していったことを確認した。なお、明治19年の上京後はさらに大きな刺激と学びがあったであろうが、函館で出会った文化人たち
元のページ ../index.html#479