鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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注⑴古田あき子『評伝 渡邊省亭 晴柳の影に』株式会社ブリュッケ、2018年。200~204頁。⑵鈴木京「平福穗庵の研究」『鹿島美術研究(年報第35号別冊)』公益財団法人鹿島美術財団、2018年、274~283頁。その研究成果の一部が反映された展覧会図録が『没後130年 平福穂庵』秋田県立近代美術館、2019年。― 468 ―― 468 ―の一部も明治20年代には上京しており(注22)、明治10年代の北海道での人脈や経験が穂庵のその後の画業や人生の展開にも大きく関わるものであったと考えられる。明治23年(1890)12月11日、穂庵は秋田にて急逝するが、13回忌を迎えた明治35年(1902)5月22日、23日に函館・実行寺において函館の旧友たちはじめ作品所蔵者らによる遺墨展覧会が催されている(注23)ことからも、函館における穂庵の存在意義を感じることができる。⑶明治5年は角館の商家である堺清兵衛の儀州丸に乗船し、北海道浦河の地に入った。(堺寅吉『堺家四代目の回顧録』1989年)⑷瀬川安五郎の経歴および穂庵との関係については、山田勲『鉱山開発の先駆者 瀬川安五郎』国書刊行会、1988年を参照。⑸「当時穂庵は一定の宿があったわけでないから、そこに一ヶ月、こゝに二ヶ月といふ風に、何処となく泊りあるいてゐた、当時新聞の売捌と新聞の種取り―探訪をしてゐた種勘七といふ函館新聞専属の人があった、この人は知名の人士にも知合いが多く、余裕もあったと見えて、穂庵を我家の珍客としてゐた、」(福原雨六「函館にのこる平福穂庵の逸事」『大毎美術』第15巻第6号、大毎美術社、1936年、48頁)。「種勘七という人の2階にゴロゴロして、酒ばかり飲んでおった。酔うては、興湧けば襖であろうが、屏風であろうが、何でも白いところへどんどん描いたんですから、種勘七の家には穂庵の描いたものがたくさんあったんであります。」(斎藤与一郎『非魚放談 函館歴史エッセイ』幻洋社、1988年、148頁。)⑹三浦泰之「近代初期、北海道開拓使に雇われた画工の基礎的研究」『鹿島美術研究(年報第22号別冊)』2005年および三浦泰之「開拓使に雇われた「画工」に関する基礎的研究」『北海道開拓記念館研究紀要』第34号、2006年。⑺函館市史編さん室編『函館市史 通説編第2巻』1990年、1454~1457頁(函館市地域史料アーカイブ参照。2020年4月22日アクセス)。阿部たつを「居候・くさやの酔庵と巴珍報」太田雄治編『しだれ桜 No.4』桂の里社、1979年。⑻前掲注⑺『函館市史 通説編第2巻』1990年、1454~1457頁を参照。⑼前掲注⑹のうち2006年の89頁。⑽函館市史編さん室編『函館市史 通説編第2巻』1990年、1432~1433頁(函館市地域史料アーカイブ参照。2020年4月22日アクセス)。⑾『函館新聞』1886年10月6日付けに「[前略]錦水巴江等の畫家が會主となり石川渓鷗老人が副會主其他村尾嘯山翁澤田雪渓先生達が補助で畫會を開き[中略]以来毎月第二日曜日に開会する都合なりと」とある。⑿東京国立文化財研究所美術部編『明治美術基礎資料集 内国勧業博覧会・内国絵画共進会』東京文化財研究所、1975年。633頁。木村巴江は、明治15年の第1回展に「蝦夷土人」を2点、

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