鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
485/688

─入江波光の模写と創作を中心として─― 473 ―― 473 ―研 究 者:笠岡市立竹喬美術館 学芸員  中 原 千 穂はじめに明治以降、万国博覧会や、明治40年(1907)から始まる文部省美術展覧会(以下、文展と略記)の開催などにより、絵画は作品自体が価値を持つものとして独立し、画家は意思を持った個人として、自己表現と芸術の追求という新たな道を歩むこととなった。仏教絵画は伝統的に信仰の対象として制作され、制作者の個性は用途上、表立って現されない場合が多い。しかし近代以降、個性を主張する時代の中でも、仏教をモチーフとした美術作品は数多く制作されている。本研究は、仏画と創作との相関性を検討するものである。1、近代の模写について近代において仏画を語るとき、模写の存在は看過できない。近代の模写には保存と学習という目的がある。明治初年の廃仏毀釈と海外流出による危機感から保存についての法律が制定され、明治20年代以降、東京美術学校(以下、美校と略記)を中心に新たな伝統美術創出のための模写が行われていく。実際に模写を行ったのは、岡倉天心の指導を受けた横山大観や菱田春草など、その後に日本画家として活躍していく作家たちである。一方京都画壇においては伝統的に四条派の学習の一つとして模写を行っているが、古画の現状模写の第一人者として名前が挙がるのは、入江波光である。波光は法隆寺金堂壁画六号壁《阿弥陀浄土変》の模写で知られるとともに、青年期には京都の若手日本画家を中心に新しい芸術の創造を目指して結成された国画創作協会(以下、国展と略記)に参加している。波光が行った模写と同時期の創作について考察を試みる。2、波光の略歴と人物まず、波光の略歴と人柄について確認する。波光は京都市上京区御前通下立売下ル元町(現丸太町上ル)に生まれる。生家は元禄頃からの庄屋であったが、波光が生まれた頃はすでに裕福ではなかった。波光は終生、生まれた家で暮らしているが、これは当時の作家としては特異であり、質素な生活を好んだ波光の性格が端的に窺える。波光ははじめ伯母から絵の手ほどきを受け、京都第一高等小学校の在学中に、幸野楳㊸ 近代日本画における仏画の受容について

元のページ  ../index.html#485

このブックを見る