鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 474 ―― 474 ―嶺の長男である森本東閣に師事する。田中修二氏は、楳嶺が古典の研究を奨励していたことや、楳嶺の弟子である竹内栖鳳が《鳥獣人物戯画》や雪舟の《四季山水図》を模写していたことを挙げ、波光も東閣の指導ですでに古画の模写を行っていた可能性を指摘している(注1)。ただしこの時の模写は、基礎訓練の性格が強いものであると考えられる。京都市立美術工芸学校(以下、美工と略記)、京都市立絵画専門学校(以下、絵専と略記)に学び、この学校時代に同級となった榊原紫峰、村上華岳からは、大きな影響を受けている。大正2年(1913)の絵専研究科の修了後には絵専の嘱託となり、美校と東京帝国博物館の古画模写に派遣される。大正7年(1918)には土田麦僊らが中心となって創立した国展の創立会員に誘われるが、辞退し、同年11月第1回国展に《降魔》を出品し、国画賞を受賞、翌年同人となる。その後国展に出品し、大正11年(1922)に渡欧。国展解散後は公募展への出品は行わず、学校での後進の指導や古画の模写を中心に行った。学校での波光の指導について、大正10年(1921)に絵専に入学し波光の指導を受けた上村松篁は、写生を見せた際、概念的であると厳しく指導されたという。当時はその言葉を反抗的な気持ちで受けたが、その後リアリズムと格闘することになる重要な節目だったとのちに回想する(注2)。また、後年波光とともに法隆寺金堂壁画の模写にも従事した吉田義夫は「友人は先生を評して骨董の黴のなかから生まれた人だといつた。頑固な厳しい先生で、先生のいわれる通りの絵を描けば展覧会では損をする。またその画論は純粋に過ぎて遵奉すれば世渡りはできない、と忠告めいたことをいつた」(注3)という生徒たちの認識を紹介した上で、波光は相手の理解度と反応をみて弁証法的に指導していたという。同僚の加藤一雄によると、波光は自らを画家ではなく教員と称することが多く、昭和9年頃(c. 1934)波光の家を交番に尋ねた際に、「波光なんて絵描きはこの近所に住んでおらん。(中略)入江幾治郎という学校の先生なら住んどる」と言われたエピソードを書いている(注4)。このように波光は作家としても指導者としても異質であったことが分かるが、指導や制作には一貫して誠実で、一種不器用な性格が現れている。昭和14年(1939)法隆寺の根本大修理に際し金堂壁画の模写を行う事が決定され、波光はそのうちの一人に選ばれる。金堂壁画の模写については、田中修二氏が論じている(注5)。波光にとっては、模写の画家としての画業の集大成といえるもので、経年変化まで写し取られた模写はそれ自体が一つの作品といえる。壁画の模写は戦中も行われ、終戦後壁画の完成を待たずして胃癌のために死去する。

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