鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 475 ―― 475 ―3、美工での創作以上、波光の略歴を紹介したが、今回は模写と創作作品がともに残っている大正初期までを個別に時系列に辿ってみる。明治38年(1905)美工の卒業制作として制作した《春雨》〔図1〕は、雨に濡れる桜と羽を休める山鳥を描いた作品で、一見して四条派風の伸びやかで情緒的な画風である。一方で桜花の細部を見ると、桜の花弁は絹目が分かるほど薄塗りであることに驚く。それでも立体感が出るのは、地に墨を掃き、明度を落としているためで、同時に雨に煙る空間の湿度まで生み出す。濡れた花弁の透き通るような質感は、形の描写力とともに、胡粉と朱、墨の着彩で陰影を作っている。葉はセピア調の茶色の中に赤味、黄味がある染料を中心に使っており、特に葉の先に滴がたまっている様子は、照りのある黒色(焼群青か)を使う。このような立体感の付け方と表現は、徹底した自然の観察と、形態の的確な把握、日本画素材の知識がなければ出来ないであろう。当時花鳥画の名手と称された菊池芳文や谷口香嶠など、波光よりも一世代上の作家には、同様のモチーフを描いていても、同じ表現は見られない。このため、波光が用いたのは、四条派の伝統を超えて自らが生み出した、新しい表現であると指摘でき、美工在学中からこのような試行錯誤が始まっていたことが分かる。4、文展での不遇美工卒業後は、一時的に染物会社の見習いとなるが、12月には志願兵として砲兵連隊に入隊する。翌年11月に除隊し、明治40年(1907)5月から美工の研究科に入学した後、10月の第1回文展に《夕月》が入選する。この《夕月》は現在所在不明であるが、モノクロ写真で確認した限りでは、大樹を配する画面の右下に農夫を乗せた牛車が進んでいるという構図で、画風は四条派風のものであることが想像される。話は前後するが、波光が文展に入選したのは、この一回のみで、周囲の友人も不思議がるほどである。美工・絵専の同級生である松宮芳年の回想録には、《夕月》が入選した時の波光の様子について「普通は官展入選は大いに悦ぶべきことであるのに、彼はどうした事か絵が「イヤになった」と言っていた」(注6)と書いている(注7)。また美工で波光の一学年後輩であった小林和作は「栖鳳先生は視野の広い、絵のわかる人であったが、どうしたわけか波光の絵をそれ程には認めず、そのために波光は、文展の第1回に一度だけ入選した切りで、あとはずっと落選しつづけたものである。その落選した絵の数々も、私は大体見ているが、決して落選するようなものではない。それぞれが格調高く新味の豊かなもので、今残って居れば万人に賞讃されるものであ

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