― 476 ―― 476 ―ると思う。その頃の文展では、栖鳳先生は京都派の主領であったので、栖鳳先生が一言声をかければ、波光の絵は必ず入選したであろうに、どうした事か毎年落選する」「今から思えば、栖鳳と波光は師弟でありながら悪因縁で、先生は波光の絵に内心で一向に感心しなかったか、或いは波光の絵の中のある傾向をひどく嫌っていたのかと思う」(注8)と述べている。栖鳳と波光の間の確執については、波光の友人である吹田草牧の回想録(注9)からも窺える部分がある。大正2年頃(c. 1913)草牧が洋画から日本画へ転向したいと相談した際に、波光は栖鳳塾への入門を薦めているが、その際「私(著者注:波光)が行つて竹内先生(著者注:栖鳳)にたのむといいのだが、今ちよつと先生と気まづいことがあるから」といい、草牧へ紹介状を託している。しかし、草牧は波光の紹介状で無事に栖鳳に入門していることや、後に栖鳳が顧問を務める国画創作協会の第1回国展で波光が国画賞を受賞していることからも分かるように、確執は大きなものではないと推測できる。むしろ波光が文展に落選し続けた理由は、入選に固執せず自由な制作態度を貫いていたためと考えられ、後に波光が官展に落選した絵専の学生に対してかけた次のような言葉からも窺える。「入選を期すなら、そのような絵を描くすべも知っていましたが、わたしは文展の落選の常連でした。初めから落選を覚悟のうえで、自分の描きたいもの、やりたい仕事をいろいろ試してみて出品していたのですが、それがかえつて作家としての間口が拡がる結果をみるので、入選を考慮して絵を描けば、そのときの傾向なり、審査員の嗜好を計算するようになつて、もし、それで一度迎えられると、その枠から自分をはずして、さらに進むことが、なかなかできないもので、ミイラ取りがミイラになります」(注10)。在学中の波光の制作態度はこの言葉のとおりであったと考えられ、大正7年(1918)に国展の創立会員への誘いを断ったことも、体裁は文展での実績が無いことを理由に辞退しているが、国展の創立会員たちに自分の描きたいものが受け入れられるのかを測る目的があったものと想像できる。5、絵専での模写と創作さて《夕月》の後は、明治41年(1908)第13回新古美術品展に《宵の春》、翌年の第14回新古美術品展に《ながやの月》が入選している。これらは所在不明で画像が確認できていない。明治42年(1909)に絵専が設立され、紫峰、華岳とともに2学年に編入する。吹田草牧によると波光はこの頃から学校の為に模写を行っていたという。明治43年(1910)1月に波光による橋本雅邦の《月夜山水》の模写〔図2〕が絵専
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