― 477 ―― 477 ―に買い上げられていることが京都市立芸術大学資料館の図書目録によって分かる。このとき同時に岡本蕉雨が模写した橋本雅邦《白雲紅樹》、紫峰が模写した狩野芳崖《暁霧山水図》《着色山水図》も同時に買い上げており、数人で東京へ行き模写をした可能性が高い(注11)。この《月夜山水》の模写を原本と比較すると、構図などは寸分違わぬ出来であるが、運筆の速度や筆の返しが少し遅く、暈かしの伸びやかさが少し重いことが分かる。《月夜山水》は明治20年頃(c. 1887)の制作と考えられ、素材等の制作環境が大きく変らない中で、模写した作品にこのような違いが生まれる事は、興味深い。明治44年(1911)の絵専の卒業制作《北野の裏の梅》〔図3〕は、北野天満宮の裏の梅林の風景であり、画面左手から流れている紙屋川(天神川)沿いに咲く白梅と、二人の童女を描く。墨での線描を主体とした表現で、同系色の色を使うにも関わらず、土坡や川、道は物質の違いまでしっかりと描き分けられ、的確な描写力がみえる。梅の花は、胡粉を小さな粒子として飛ばし定着させており、現代の絵画技法でいうスパッタリングのような技法を用いたことが考えられる。このような偶然性を利用した表現は、的確な描写力で描かれた画面の閉塞感を緩和している。同年7月には国宝阿弥陀聖衆来迎図の中尊を模写している〔図4〕。この祖本は現在高野山の有志八幡講十八箇院の所蔵で、12世紀第四四半期の作品である。この模写は京都市立芸術大学芸術資料館に収蔵されており(以下、京芸本と略記)、三幅の画像を波光、星野空外、辻松喬が模写している。3名の作業の分担は記録には明記されないが、3幅ともに違う個性があり、祖本では共通であるはずの背景や欠損部の表現にも違いがあるため、各人が1幅ずつ模写をしたと考えられる。中幅の画面左下部には「明治四十四年夏七月入江波光模」と書付があり、中幅は波光が模写したことが分かる。この模写について、祖本を直接模写したものではなく、東京帝国博物館で模写されたものである可能性が高い(注12)。東京帝国博物館の模写(以下、東博本と略記)は、明治29年(1896)帝国博物館の模写事業として中幅を本多天城、左右を下村観山・溝口禎治郎が担当したとされる。完成後は同博物館に収められ、現在は東京国立博物館に所蔵される。松浦正昭氏は、下村観山がこの阿弥陀聖衆来迎図の模写を通して「色隈、裏箔、裏彩色などの平安仏画における特殊色彩技法を再発見し、これを創作に活かした「春雨」(東京国立博物館)などの近代日本画の名作を生み出した」(注13)と指摘する。有志八幡講十八箇院の祖本と東博本、京芸本を比較すると、東博本の彩色に京芸本が近いことが分かる。加えて、祖本の中幅上部には一定の間隔をおいて楕円状の損傷
元のページ ../index.html#489