― 478 ―― 478 ―があるが、東博本、京芸本では阿弥陀の上部付近の損傷が描かれていないことからも、京芸本は東博本を手本に模写されたものであることが裏付けられる。波光は明治45年(1912)に東寺旧蔵の十二天のうち水天像を模写している。この模写についても、十二天の他の尊像の模写が現存しないことなどを考慮すると、二次模写である可能性も高いが、阿弥陀聖衆来迎図の模写よりは、祖本に近い。絹本の祖本に用いられている裏彩色や截金などの技法を、経年劣化の現状もきちんと紙の上に描き出しており、その後の細緻な現状模写の原型がみえる。この年は《仇英唐人聴声図模写》《勝川春章筆竹林七妍図》を模写しており、仏画のみならず広く古画への見識を広げていたと考えられる。6、学校外での創作明治45年(1912)4月、波光は松宮芳年らによって明治42年(1909)に結成された桃花会に紫峰、華岳とともに参加している。桃花会は日本画の革新的研究会であり、結成の背景には絵専で美学美術史を指導した中井宗太郎の影響が指摘されている(注14)。加えて中井からの影響で大きなものは、浮世絵への傾倒が挙げられる、大正2年(1913)の《振袖火事》は、明暦の大火を描いた作品で、逃げ惑う人々を大ぶりな姿で描き、人々の姿態や衣裳を初期浮世絵の菱川師宣などから学んだと指摘されている(注15)。この頃の波光の興味は浮世絵や版画に傾倒しており、浮世絵の収集も行っている他、大正3年(1914)には河合卯之助、森谷南人子らと雑誌『美術と文芸』に創作版画集を販売する広告を掲載している。版画である《芝居絵》〔図5〕は大正2年頃(c. 1913)の制作と考えられるが、波光の遺作展にも出品された、中井の旧蔵品である。また、大正4年(1915)には星野空外や甲斐庄楠音、岡本神草などと15人で、密栗会を結成する。小品の《蛍》〔図6〕もこの頃の制作と考えられ、密栗会展覧会に出品した《蛍》である可能性が考えられる(注16)。文展で落選し続けていた波光が、このような研究会に参加していたことは、厳密な模写を行う反面、そこでの発見を自由な創作として、発表する場所を求めていたともいえ、その後の国展への参加へとつながる動きである。さらに、松宮芳年は在学中の波光と華岳について「ある年の春京都の岡崎公園の博覧会にドリームランドという余興があった。小さな舞台一面にガマ マトスがあり、その中に花傘を持った舞妓の人形が立ってくるくると廻り、やがてそれが、鏡と電灯の点滅
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