鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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注⑴田中修二「入江波光の法隆寺金堂壁画模写について」『成城美学美術史』 3-5、平成7年、p7-― 479 ―― 479 ―加減で、徐々に生きた舞妓に変って、蓄音機の音楽につれて舞うのだった。今から思うと、田舎臭くてタワイもないものであったが、華岳と波光は、それを楽しんで何度も見に行っていた。時には祇園の一流舞妓も出演したので赤新聞の一隅にはその日の出演者の名前が出た。それによく注意していて、可愛ゆい妓の出る日には二人は動物園へ写生に行くような振りをして、抜け出して行ったものである」(注17)と語っている。また吹田草牧の回想録には、波光が大正2年(1913)の上京中に「よく洲崎の娼婦街を歩きまはつて娼婦をスケツチしたのだと云つて、幾冊ものスケツチ・ブツクを見せてくれた。雑記帳に、ロダンの鉛筆画を思はせるやうな鉛筆のスケツチが、実に奔放な線でかきまくつてあつた」(注18)とあり、模写だけでなく、同時代の世相にも目を向けていたことが分かる。大正初期の波光の創作に取り組む姿勢は、後の厳格な教師、模写の画家というイメージとは異なるものである。おわりに以上のように、波光の画業の黎明期といえる時期の模写と創作を列挙したが、この大正初期の時期までを見ると、模写を創作に活かしたというような直接的な繋がりは指摘できない。波光にとっては、古画の模写も創作も等しく心の赴くままの、美の追究であったことが窺える。特に仏画の模写においては、当時すでに原本にあたる機会と場所が限られていた状況もあり、近代以降に創作された仏画は、波光の《降魔》をはじめ、華岳の《阿弥陀》など、モチーフとして仏を描くが、それまでの仏画の概念を取り去り、原点回帰したものが主流である。今後それらの想像の源泉となった思想や作品間の相互の影響関係を整理するとともに、引き続き波光の模写の調査を進め、創作との関係を検証していきたい。8⑵鬼頭美奈子「入江ショック はじめての試練」『上村松篁展─鶴に挑む』図録、松伯美術館、平成23年、p40-41⑶吉田義夫「入江先生を偲ぶ」『画論』北大路書房、昭和24年、p216⑷加藤一雄「入江波光」『三彩』195、昭和41年、p14⑸同(注⑴)⑹松宮左京(芳年)「華岳、波光のこと」『アート』11-3 昭和38年、p3⑺この文章に続けて芳年は「その年の十二月に(或いは翌年であったかも知れぬが)こつそりと急に軍隊へ入った。当時は十八才以上になれば、志願すれば現役入隊出来る制度があったが、

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