― 480 ―― 480 ―波光はそれに従って、淡路の由良要塞砲兵隊へ入隊したのであった」と述べているが、他の資料では波光の入隊は明治38年12月となっており、精査が必要である。⑻小林和作「解説」『アート』11-3 昭和38年、p7⑼吹田草牧『私の生涯』B5判ノート2冊に記された明治23年から昭和26年までの回想録であり、笠岡市立竹喬美術館所蔵。⑽吉田義夫「入江先生を偲ぶ」『画論』北大路書房、昭和24年、p196-197⑾京都市立芸術大学資料館の松尾氏のご教授による。美校と美工・絵専は、美校卒業の作家を教員に迎えていることなどから、伝統的に東京とのつながりは深いと指摘されている。⑿京都市立芸術大学資料館の松尾氏のご教授によると、明治44年に学校の行事で高野山を訪れた記録はなく、東京で模写した可能性が高いと指摘される。⒀松浦正昭「よみがえる仏たち」『模写・模造と日本美術』図録、東京国立博物館、平成17年、p10⒁上薗四郎「国展創立を導いた大正初期の京都画壇の諸相」『国展創立前夜』図録、笠岡市立竹喬美術館、平成29年、p13-14⒂上薗四郎「作品解説 振袖火事」『入江波光』図録、笠岡市立竹喬美術館、平成25年、p114⒃日出新聞(大正4年7月25日)に掲載の密栗会展覧会の評の中に「波光君は蛍を題として、二美人の蛍狩りの図だが」という記述があり、笠岡市立竹喬美術館所蔵の《蛍》の構図に近い。⒄松宮左京(芳年)「華岳、波光のこと」『アート』11-3 昭和38年、p7⒅同(注⑼)
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