注⑴「唐様」については、例えば『新潮世界美術辞典』のように、「元の趙孟頫、明の文徴明を倣った書をいう」と極めて限定的な意味合いで説明される場合もある。ただし、本稿においては趙孟頫と文徴明に限定せず、日本書道史研究において一般的に使用されている「江戸時代に行われた中国風の書」という意味合いで用いる。『新潮世界美術辞典』新潮社、1985年、323頁を参照。⑵角井博「江戸の唐様について─流入した書跡・法帖と唐様書道の展開─」『Museum東京国立博― 490 ―― 490 ―は、広沢へと至ることで整理され、中国書法史における正統派の書風にまとめられることで、江戸の唐様における1つの典型を形作ることとなるのである。おわりに本稿では、雪山と広沢の書における造形を分析することを通して、江戸の唐様における展開の一様相を考察してきた。中国人から直接に書を学んだ雪山は、文徴明の書を基盤にしつつも、革新派的・和様的線質が混在する書風であると言える。それに続く広沢は、雪山の書に混在していた革新派的・和様的な要素を引き継がず、正統派の書風を強調することによって、唐様の1つの典型を形作ったのである。広沢によって示された唐様の典型は、彼以降、様々な展開を生み出す素地となった。中田氏をはじめ、多くの研究者が指摘しているように、広沢以降の唐様は様々な書体を摂取し、書風を模索する展開を迎える(注12)。広沢の門下にあって、雪山・広沢から文徴明風の字形を引き継ぎつつも線質を和様化した三井親和や、文徴明よりも遡って王羲之(303~361)の書に近づこうとした松下烏石などの書家が存在することが、これを示している(注13)。さらに、江戸時代後期には、中田氏が「逸脱派」としていた良寛や与謝蕪村のような書家が現れる。彼らは、肉筆ではなく拓本を手本とすることによって独自の書風を形成したと考えられる(注14)。雪山と広沢以後、良寛や与謝蕪村へと、どのように展開していくのかについては、今後の課題としたい。物館研究誌』第331号、東京国立博物館、1978年、34頁。⑶米田彌太郎氏の研究については、『近世日本書道史論考』柳原書店、1991年、ならびに『近世書人の表現と精神』柳原書店、1999年を参照。⑷中田勇次郎『日本の美術 別巻 書』平凡社、1967年、137-149頁⑸名児耶明監修『決定版日本書道史』芸術新聞社、2009年、145頁⑹米田彌太郎「北島雪山と細井広沢の書学」『近世書人の表現と精神』柳原書店、1999年、29-57頁を参照。⑺米田、前掲論文、34頁。なお、( )内は筆者による補注である。⑻米田、前掲論文、34頁⑼長崎歴史博物館HP
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