― 499 ―― 499 ―離感が消失し、概念的な位置で示されている。第二扇には、東海道中の難所として知られる薩埵峠が描かれている。第三扇は興津川、そして第四扇にまたいで興津宿があり、街道の陸側には清見寺が描かれている〔図2-イ〕。清見寺の境内には鐘楼と名物の梅の古木「臥龍梅」があり、客殿の配置なども『東海道名所図会』(寛政9年(1797)刊行)の挿絵に一致するものがある(注11)。なお、街道に面した清見寺の門の塀は格子状に描写され特徴的である。そして興津宿の浜辺、つまり清見潟には製塩作業をする人が描かれている。清見潟の製塩風景は、奈良県美本や「富士浅間曼荼羅図」、「富士三保松原図屏風」にもみられ、『東海道名所図会』の挿絵にも「塩浜」の描写がある。第四扇から第五扇にかけては江尻宿で、宿場内に流れる巴川には稚児橋が架かる。『東海道名所記』(万治年間(1658~61)刊行)の江尻の項に「遊女もあり」(注12)とあるように、巴川沿いの建物の屋内には遊女が描かれている〔図2-ホ〕。また、第四扇から第六扇の下部には三保松原が大きく配され、松原には馬が三頭描かれている〔図2-ハ〕。『東海道名所記』には三保松原のうちに「野馬おほし」(注13)とあり、その野馬を表すものであろう。三保松原近くの海上には遊覧の舟もあるが、第三扇の最上部に小さく描かれた富士山は存在感が乏しく〔図2-ロ〕、ここでは奈良県美本でみたような富士信仰による富士見の旅のイメージは希薄である。富士山は画面内に押し込めるようにやや傾いて描かれ、本紙の上端を詰められてしまったのか、三峰の山頂部分を欠く。府中宿を描く第六扇の上半分には、寛永12年(1635)に焼失した天守閣を持つ駿府城、そしてその上には現在の静岡浅間神社の社殿が描かれ参詣者もいる。第六扇の下半分の山間には、久能山東照宮が描かれている〔図2-ニ〕。久能山は、元和2年(1616)に没した徳川家康が葬られた地で、元和3年に家康を祀る東照社が創建され、正保2年(1645)の宮号宣下により東照宮と改められた。画中の久能山東照宮には参詣者が連なり、三保松原との間には漁夫が描かれている。以上、静岡県美本の描写内容は、『東海道名所記』等の道中記の記録と照らし合わせてもおよそ合致するもので、街道沿いの各所の方角や位置もある程度実際に即したものといえる。そして、富士山と三保松原という中世以来の歌名所を含みながらも、清見寺の伽藍や三保松原の野馬など実際の様子を基にした当時の名物の描写が認められ、とりわけ静岡浅間神社、駿府城、久能山東照宮といった近世の駿河国の重要施設を描き込む点に特徴がある。飯田真氏は、静岡県美本について「駿河国の名所を描いた、駿河名所図というべき様相を呈する」(注14)と述べるが、富士名所から東海道
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