鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 500 ―― 500 ―を軸に視野を広げ、金箔で強調された道によりさらには街道図への指向も示す作例となっている。b.人物風俗生業者としては、製塩作業、漁夫がおり、在地人物には加えて江尻宿の店先の女性や遊女がいる。旅人については、主に単独の徒歩の旅人、騎馬や徒歩で往来する武士とその従者の一行、荷を担ぐ者などが描かれている。また、稚児橋では駕籠の一行、静岡浅間神社では女性参詣者の姿がある。往来人物の風俗は、奈良県美本ほどの多様性はなく、巡礼や高野聖、六十六部、琵琶法師など、16世紀から17世紀初期の景観絵画によくみられる霊地を表象する図像は描かれていない。それどころか、僧や尼僧も描かれず、宗教者として確認できるのは在地人物である久能山東照宮の神官のみである。ここに描かれている旅人は、街道を旅する者としての姿であり、もはや参詣者の意味での旅人の意識は薄れている。そうした中で清見寺や静岡浅間神社、久能山東照宮には参詣者の姿が認められる。富士名所の定番となった清見寺では、花咲く「臥龍梅」と高台から望む景色を楽しむような行楽の姿がある一方、徳川家康の権威を背景とする久能山東照宮には神官がおり、多くの参詣者が社殿に向かっている。中世以来の霊地である名所への参詣については信仰よりも行楽の様相が強くなるという傾向は、三保松原の近くを遊覧する舟についても同様のことである。c.静岡県美本の位置づけ制作年代については、飯田氏がその描法から寛永から寛文初年(1624~61頃)と推定しているが、ここでは描写表現の近しい作例として「日光東照宮祭礼図屏風」(栃木県立博物館蔵)(注15)をあげたい。「日光東照宮祭礼図屏風」は、景観年代が寛永16~18年(1639~41)と考えられ、制作時期もさほど離れないと推定される。比較すると、丸みのある輪郭や人物の肢体表現、風俗の描写、金雲の形態などに類似性があり〔図2-ヘ、図3〕、飯田氏の所見に大きな相違はないと考える(注16)。「日光東照宮祭礼図屏風」は、近世日光における東照宮の神輿渡御祭を主題として、日光街道の鉢石宿や日光山内の町並みを描きつつ、中世日光の信仰世界を下敷きとした神橋などの名所景観を含んでおり、日光の名所風俗図ともいえる作例である。中世以来の聖地の名所景観と近世に整備された街道でつながる徳川将軍家の聖地を描くという意味において、静岡県美本と「日光東照宮祭礼図屏風」は類似の背景を持つといえよう。こうしたことを踏まえれば、静岡県美本は三保松原を中心とした富士名所を描きながらも、徳川幕府の威光を示す久能山東照宮や駿府城、そして近世東海道に主題の重心

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