― 501 ―― 501 ―が傾くもので、富士川以西・府中以東の駿河国の街道沿いを掌握する視点によって制作された作例といえる。さらに静岡県美本が東海道図屏風の成立につながる様相を示していることは一見してみてとれるが、東海道図屏風もまた東海道にまつわる中世文芸を基層とした名所や霊地の集合体と認識でき(注17)、そのうえで近世東海道として整備された交通の要衝、また各宿場の城郭や御殿を描き込む様子は、中世の景観を近世の文脈に包み込んでいく静岡県美本の在り方と重なり合うものがある。そうした意味からも、静岡県美本のような名所風俗図から東海道図屏風へと発展する土壌が養われたのではないだろうか。おわりに「東海道往来図屏風」の往来描写の背景には、舟上で数珠を手に富士遥拝する僧に象徴されるように、大きく描かれた富士山が表象する信仰のイメージが強く残り、富士参詣曼荼羅とも類縁する富士遥拝の富士見の旅が大きな意識として存在することがわかる。一方、静岡県美本「三保松原・厳島図屏風」の三保松原図は、他の遠山と変わらない大きさで富士山を描き、描かれた旅人の描写からは、「東海道往来図屏風」にみたような富士信仰の意識は希薄であるといえる。かわりに、旅人が行きかう道に対する意識が強調され、東海道図屏風へと展開する指向が表れている。さらに、徳川幕府の威光を示す久能山東照宮や駿府城にも重きが置かれ、中世の景観を近世の文脈に包み込んでいく静岡県美本のありさまは、東海道図屏風の様相に通じるものである。以上のように、名所風俗図の旅人の姿に着目することで、霊地参詣の信仰を含んだ名所への旅を描くという名所風俗図の側面がみえてきた。このことは霊地の景観をより実際的な参詣の場として描く参詣曼荼羅の隆盛と呼応するものであり、さらには旅の道程に関心を向ける街道図の発展へと展開していくことも見逃せない。したがって、名所風俗図の往来描写は、中世から近世への移行期に表出する旅と信仰の高まりを象徴する表現として位置づけられよう。本稿では東海道図屏風の諸本を含めた考察まで至らなかったが、類型化する東海道図屏風の一つの完成形とみなせる静岡市新収蔵本や寛文年間(1661~73)の狩野宗信による作例(東京都江戸東京博物館蔵)、駿府城と城下の様子が事細かに描かれた一隻(個人蔵)(注18)など、今後はその初期的作例について街道絵図も含めて検討し、東海道図屏風の成立について考えたい。
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