鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 506 ―― 506 ―㊻ タイにおける地獄表現の現状─20世紀に新出した立体表現と周辺地域との関連─研 究 者:早稲田大学 會津八一記念博物館 助手  椋 橋 彩 香1.はじめに現在、タイには約3万の寺院があるといわれているが、そのうちに「立体像を用い、敷地内に地獄をあらわした空間を併設している寺院」が存在する(注1)。等身大より一回りほど大きくつくられたセメント像を群像で用いることにより、敷地の一角に地獄を表現している寺院である〔図1〕。このような寺院では、地獄の獄卒や亡者の立体像が多いところで数十体~数百体もつくられており、参拝者が実際にその空間に足を踏み入れることにより、地獄を疑似体験できる構造となっている。現在、こうした立体的な地獄表現を有する寺院は、タイ国内に70か所以上確認されている(注2)。日本ではこのような寺院を「地獄寺」と称し、その俗悪な様相から「珍スポット」「B級スポット」と認識されている。しかしながら、タイにおいてこのような寺院の総称は存在せず、あくまで寺院の一角につくられた地獄空間であると認識されている。加えて、タイではこのような地獄空間は好奇の対象ではなく、「教義を視覚的にあらわす」という明確な大義をもってつくられている。さらに、地獄空間及び造形物の規模が非常に大きいこと、またそれらが地域を問わずタイ全土に存在すること、そしてそこにみられる造形表現が伝統を受け継ぐ一方で、仏典の範疇を超えたタイ独自の特徴をもっていることなどを勘案すると、地獄寺はタイの現代における宗教的造形表現を通観する上で看過することのできない事象である。以上をふまえ、筆者は現地調査をもとに、タイの地獄寺にみられる造形表現を考察、また地獄寺成立の背景を社会的要因に見出してきた。そしてタイの地獄寺を体系的に把握したことにより、これらは単なる素人の手になる通俗的なものではなく、仏教と土着の精霊信仰の習合が生んだ造形表現を土台とし、タイの現代社会の様相を強く反映させて今日なお変化しつつある仏教信仰の表現の一形態であると結論付けた。仏教が現在もなお深く生活に浸透しているタイにおいて、本研究でその表現形態の現状を明らかにすることは、仏教の世界─ほとけの訓戒と救済の現場─を表現するという営みのモデルケースとして、他国・他時代の事例にも示唆を与えるものであると期待される。

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