― 516 ―― 516 ―㊼ 敦煌佛爺廟湾墓に表された人面魚・飛魚の世界─晋・前涼の『山海経』受容と西北認識─研 究 者:二松学舎大学 文学部 准教授 松 浦 史 子はじめに本論で取り上げるのは、中国甘粛省敦煌市の佛爺廟湾古墓群〔図1〕から出土した晋~十六国時代の画像磚である。とくに墓門牆壁画像磚にみる一連の祥瑞図は〔図2〕、該期の民族衝突・融合地における漢魏文化受容の実態を探るための重要な視覚資料として注目を浴びているが(注1~5)、それらに『山海経』の神話的博物が多く描かれること、なかでも他地に作例のない『山海経』由来の兒魚〔図3〕万鱣〔図4〕という有翼の人面魚・飛魚が描かれる理由は未詳である。よって本論では『山海経』の兒魚・万鱣に比される有翼の人面魚・飛魚図の選択背景とその表象するものについて、従来未検討の、晋~十六国(前涼)における『山海経』受容という視点から考えてみたい。1 郭璞にみる『山海経』の西北認識─ 周穆王の西征・西王母の仙境1-1 汲冢書『穆天子伝』の出現と『山海経』の神話世界の蘇生『山海経』は前漢迄に成立した中国最古の神話的地理書である。該書に初の膨大な注釈を加えこの奇異な神話地理世界の実証を試みたのは、動乱の西晋末~東晋初に活躍した博物学者郭璞(276-324)であった。近年の研究でも、卜筮・祥瑞の知識を以て東晋中興に与した郭璞が『山海経』の神話的博物を天人相関の儒家的祥瑞に詠み替え、政治利用した点が注目される(注6)。郭璞の『山海経』受容についてもう一つ重要なのが、太康2年(281)、戦国魏の襄王の墓から発見された汲冢書との関わりである。とくに晋~前涼の『山海経』受容との関わりから看過出来ないのは、郭璞がその汲冢書の一つである『穆天子伝』に注釈を施したこと、『山海経』の西北世界を『穆天子伝』に描かれる周の穆王西征と不可分のものとして理解したと考えられること(注7)、である。1-2 郭璞『山海経』注・序にみる西王母仙境と穆天子の西征『山海経』では西次三経にのみ美麗な韻文が用いられる。これについては、夙に西方に仙境を求める意識が指摘される(注8)。魏晋の神仙道教勃興に伴い、郭璞における西方仙境の希求はさらに顕著となるが、その西方仙境は穆王西征と一対のものとされる特徴がある。とくに西次三経の①密山から②鍾山(県圃)③泰器の山④槐江の
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