山(天帝の平圃)⑤昆侖丘(帝の下都)⑥流沙⑦玉山(西王母)⑧軒轅丘へ連なる西次三経・仙山記述の注釈のうち(注7序文(1)(2)にも言及あり)、②④⑤⑦に『穆天子伝』の穆王西征記事を引くことから、郭璞の『山海経』西方仙山は周の穆王西征と一体化していた、といってよい。郭璞が『山海経』注釈に『穆天子伝』をとりわけ多く引くのが⑦西王母の玉山の条である。群玉の山で穆王が採取した玉を中国に持ち帰った話に続けて、次の著名な西王母謁見の話を引く。『穆天子伝』に曰く、⒜吉日甲子、天子西王母に賓し、玄圭・白璧を執り、以て西王母に見ゆ。錦組百縷・金玉百斤を獻ず。西王母再拜し之を受く。⒝乙丑、天子西王母を瑤池の上に觴す。・・・天子遂に驅りて奄山に升り、乃ち迹を奄山の石に奄山に升り、乃ち迹を奄山の石に紀して、之が槐を樹て、眉して西王母の山と曰ふ。槐を樹て、眉して西王母の山と曰ふ。⒜は郭注序(注7(1))にもみる穆王から西王母への玉石の献上、⒝瑤池の宴に続くのは郭注序(注7(2))にも見る重要な場面。穆王が弇山に登りその石に「西王母の山」と刻したとの記録だが、そこに槐を植えたことは、後述のように、郭璞とほぼ同時代の前涼・張駿にみる『山海経』受容との関わりから見逃せない。2 前涼張駿の『山海経』受容─郭璞との共通点・相違点2-1 西王母の仙境と前涼張駿の西征─穆王西征との関わり動乱の十六国時代の初めの前涼は、西晋の漢人官僚が中国最西端に樹立した地方政権であり、晋に服属したとされる(注9)。その統治者張駿(307-346:諡号は文王)には、郭璞同様、『山海経』受容が見えるが、この点、従来の『山海経』研究や晋・前涼研究はじめ、佛爺廟湾古墓群に『山海経』の博物が多く描かれる背景としても看過されている。これに対し本論では、郭璞と張駿の共通項として、『山海経』の「図」に基づく韻文『山海経図讃』があること(ただし殆どが佚文)(注10)、張駿にも郭璞同様の穆王西征と一体化した『山海経』受容があったことに着目したい。『晋書』張駿伝に、次の重要な記録がある。永和元年・・・酒泉の太守馬岌、上言するに「酒泉の南山は、即ち崑崙の體なり。周の穆王 西王母に見え、樂みて歸るを忘るるは、即ち此の山を謂ふ。此の山に石室の玉堂有り、珠璣鏤飾し、煥たること神宮の若し。宜しく西王母の祠を立て、以て朝廷無疆の福を くべし。」と。駿これに従ふ。樂みて歸るを忘るるは、即ち此の山を謂ふ―517――517―
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