鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 518 ―― 518 ―酒泉の太守が、前涼王朝の永続を祈念する西王母祠の建立を張駿に薦め、張駿はそれに随ったという。十六国期の涼州では西王母は非漢族にも信仰されたが(注11)、漢人王権たる前涼・張駿にみる西王母受容との違いは、酒泉の南山を西王母の住まう崑崙に見立て、そこを周の穆王が西王母に見えた場とし、穆王西征と結び付けた点にあるだろう。『山海経』の内容と重複する『穆天子伝』の発見が張駿誕生の28年前であることからも、張駿における『山海経』の西北世界は郭璞同様、汲冢書の穆王西征と一体化した実在の西王母仙境として認識されたものと見て良い。とはいえ、郭璞の『山海経』西北認識との決定的な違いに、張駿自身の西征がある。十六国時代の華北に最も長く君臨した漢人王朝が前涼であり、その王者は開祖張軌以来、晋王朝の西方守護役を担っている(注12)。なかんずく張駿による西征の功績は抜きんでており、晋の領土を亀茲(庫車)・鄯善(楼蘭)・焉耆から、咸和始めには高昌(吐魯番)まで拡げた(注13)。とすれば、前涼のみでなく前涼の服属した晋王朝にも、張駿西征を穆王のそれに準える意識があったと推測することができるだろう。2-2 張駿の西征と博物嗜好―「槐」と西王母の仙境その一つの傍証が、張駿が中国へ移植した「槐」をめぐる『十六国春秋』涼録(事類賦巻二五、木部、槐)の伝である。河西に無い楸・槐・柏・漆を張駿が秦隴から移植したが、皆枯れた。ただ酒泉宮の西北にのみ「槐樹」が生え西涼の李暠が「槐樹賦」を著した、というもの(注14)。郭璞注序にも、穆王が天下周遊を経て、異域の珍奇な鳥獣草木宝玉等を中国に持ち帰ったことが特記される(注7(3))。穆王同様、張駿が中国に移植した草木のうち「槐」が特別視される点をめぐりさらに重要なのは、『山海経』西方仙境のハイライト⑦玉山に郭璞引く『穆天子伝』において、西王母に見えた周の穆王が奄山の石に「西王母の山」と刻みそこに「槐樹」を植えた、という記述との符合である(1-2引『穆天子伝』原文⒝)。この点にも、張駿西征が穆王西征に重ねられる意図が見て取れよう。『山海経図讃』は、通史的に見ても郭璞・張駿の作例に留まる。張駿の時代、前涼は晋王朝に服属していたこと、張駿は郭璞より31歳年下の同時代人であることから、前涼張駿の『山海経図讃』及びその基礎となる『山海経』受容が、晋の郭璞の『山海経』受容を経ていたことは間違いない。しかし、張駿西征が穆王西征に準えられたこと、西王母と穆王の邂逅地にみずから居を構え国家無窮の西王母祠を建立し、晋の西方守護役を果たしたことなどからみれば、同じ穆王西征と一体化した『山海経』の西北認識でも、江南に逃れ東晋王朝の創建に携わった郭璞との違いは明かである。以上、晋と晋の西方守護役たる前涼の為政者にみる『山海経』受容の共通点・差異を踏ま

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