― 519 ―― 519 ―え、該期涼州の画像墓に多い『山海経』の人面魚・飛魚の表象を考えてみたい。3 佛爺廟晋十六国画像磚墓にみる人面魚・飛魚─西北仙境と前涼王朝3-1 乱世の西北の空飛ぶ魚と人面魚 ─『山海経』の西北に棲む異魚のルーツ3-1-1 佛爺廟湾晋十六国墓の祥瑞図─成立期・内容甘粛省敦煌市の東南、三危山の前に広がるゴビ砂漠に造営された大型古墳群が、佛爺廟湾古墓群である〔図1〕。このうち墓門牆壁画像磚を持つのは1号、37号、39号、118号、133、1001号の彩色画像磚墓(1、1001号墓以外は(注1)甘文研1998に掲載)、91号、167号の墨線画像磚墓の全8基であり、1991年12月に発掘された1号晋十六国墓画像磚(以下1号墓)のみ「傍題」を伴う((注3)北村永2006、(注4)河野2012参照。残り7基の祥瑞図の名称は、1号墓祥瑞図から推したもの)。先行研究((注2)殷光明2006・(注5)関尾史郎2011)に拠れば、墓門に犇めく祥瑞図には麒麟・鳳・赤雀・白兎・千秋・白虎・青龍・赤烏など伝統的なものの中に、受福・舎利・尚陽・黿鼉・戯豹・河図・洛書・万鱣・兒魚など珍しい祥瑞が多く見える。当該画像磚の内容が漢魏文化を継ぐことは殷光明(2006)に指摘されるが、その成立年代を西晋初とするのは概ね甘文研(1988)図録に拠る。ただし、その成立年は近接墓の副葬品の紋様比較からのみ決められ、年代比定の論拠は薄弱である(注15)。これに対し本論では、該墓の『山海経』関連祥瑞図が晋の郭璞と前涼の張駿にみる穆王西征と一体化した『山海経』受容との関わりを予測させることから(注16)、その成立期を、郭璞・張駿が「山海経図」に基づき『山海経図讃』を作成した晋~十六国初とし、その作り手は前涼を支えた敦煌の漢人豪族と考えることとする(注17)。3-1-2 『山海経』の西北仙境に棲む異形の魚たち─飛魚・人面魚該墓群の祥瑞図には夙に『山海経』の影響が指摘される一方、他地にみえない作例として、『山海経』の人魚「鯢魚(郭璞注)」に比される有翼の人面魚「兒魚」〔図1〕(注18)や文鰩魚に比される有翼魚「万鱣」〔図3〕が多く描かれるゆえんは、未検討のままである(兒魚は1号〔図1〕・133号〔図5〕・1001号墓(翟宗盈墓の別名)(注19)、有翼の飛魚は1号〔図2〕・133号〔図6〕・1001号墓にも見える)。よってまず本論では『山海経』の博物のうち、空飛ぶ瑞魚・仙魚や人面魚がとくに「西北」に多く描かれる点に注目したい〔表1〕。1号墓の「万鱔」の傍題もつ有翼の飛魚図は、殷光明(2006)に拠れば西次三経・泰器山の観水に棲む「文鰩魚」であるという。豊穣をもたらす文鰩魚は、通史的に見ても『山海経』にのみ見える古く稀な瑞魚であるとともに(注20)、「魚身にして鳥
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