鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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注⑴甘粛省文物考古研究所『敦煌佛爺廟湾 西晋画像磚墓』文物出版社1998年。⑵殷光明(北村永翻訳)「敦煌西晋墓出土の墨書題記画像磚墓をめぐる考察」『仏教芸術』285、― 521 ―― 521 ―に拠るように(注24)、同じ中国周辺部の漢人社会でも各地の信仰に沿う『山海経』の異形が好まれた傾向からすると、同時代河西の漢人墓にのみ描かれた『山海経』西北の人面魚にも、西北古来の人面の鯢魚トーテム信仰〔図7〕の影響を考え合わせねばならない(注25)。冒頭に述べたように、晋の郭璞は『山海経』古来の神話的博物を、晋王朝の正統性を支える天人相関の祥瑞に詠み替えた(注26)。他方、その晋の西方守護役を担った前涼・張氏政権についても、例えば、開祖・張軌や文王・張駿の河西での繁栄を嘉する祥瑞が少なからず記録される(注27)。以上を総合すると、佛爺廟湾墓群に多く『山海経』西北の「有翼の人面魚・兒魚」、「有翼の万鱣」が描かれた背景には、その造営者たる漢人移民たちがこの中国西北の土地を中国古来の『山海経』西北仙境に見立てるとともに、そこに産する人面魚・飛魚を天人相関の神仙的祥瑞に読み替え(注28)、該期該地の漢人文化の象徴として示した政治的意図が指摘できる。その『山海経』の人面魚・飛魚受容の誘導役となったのが、郭璞・張駿を経て王権を嘉するものとなった『山海経』西北の神仙的飛魚や蘇る人面魚たち(注29)、その濫觴とも考えられる約6000千年前の仰韶文明の人面魚・鯢トーテム信仰等の、西北在来の信仰であったのではないか。結語動乱の西晋~十六国初期、『山海経』の神話世界は、南方に逃れた東晋王室を寿ぐもののみならず、異文化接触の激化した西北を護る漢人たちの重要な精神文化的象徴となった。とりわけ異民族の南下により漢人晋王朝が南下を余儀なくされた当時、晋の西方守護の役を果たした前涼の漢人社会において、西王母に連なる古来の『山海経』の人面魚・飛魚は該地古来の信仰も取り込みながら、周穆王に準えられた前涼文王・張駿の河西統治を寿ぐ神話的シンボルとなると共に、該期河西漢人の死後の安寧をも護り・死者の再生をも祈念する重要な神仙的瑞物となったものと考えられる。2006年。⑶北村永「敦煌佛爺廟湾西晋画像磚墓および敦煌莫高窟における漢代の伝統的なモチーフについて」『仏教芸術』285、2006年。⑷河野道房「敦煌佛爺廟湾西晋墓画像磚資料稿」『人文学論集』30、2012年。

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