鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 522 ―― 522 ― 『山海経』を踏まえるという晋(前秦)の王嘉による志怪書『拾遺記』巻1には、死者の蘇り⑸関尾史郎『もう一つの敦煌─鎭墓瓶と画像磚の世界』高志書院2011年等。⑹連鎮標『郭璞研究』三聯書店2003年等。⑺郭璞『山海経図讃』西王母「天帝之女、蓬髪虎顔、穆王執贄、賦詩交歡、韻外之事、難以具言。」、同三青鳥「山名三危、青鳥所憩、徃來崑崙、王母是隸、穆王西征、旋軫斯地」のほか、郭璞『注山海経序』には穆王西征とセットの西王母への言及が目立つ。「案汲郡『竹書』及『穆天子傳』、(1)穆王西征見西王母、執璧帛之好、獻錦組之屬。・・・。(2)遂襲崑崙之丘、遊軒轅之、眺鍾山之嶺、玩帝者之寳、勒石王母之山、紀迹玄圃之上。(3)乃取其嘉木・豔草・竒鳥・怪獸・玉石・珍瑰之器・金膏・燭銀之寳、歸而殖養之於中國。(4)穆王駕八駿之乘・・・、以周厯四荒、名山大川、靡不登濟。東升大人之堂、西燕王母之廬、南轢黿鼉之梁、北躡積羽之衢。窮歡極娛、然後旋歸。(5)案『史記』説穆王・・・以西 狩、見西王母、樂而忘歸。」前野直彬訳注『山海経・列仙伝』(清郝懿行『䇳疏』本が底本)集英社1976年。⑻小川琢治『支那歴史地理研究』弘文堂書房1929年、p239-第8章「崑崙と西王母」参照。⑼三崎良章『五胡十六国─中国史上の民族大移動』東方書店2013年等参照。⑽厳可均『全上古』収郭璞『山海経図讃』序に拠れば、宋代の道藏本『図讃』には張駿『図讃』が含まれるという。道藏本の他、唐代の類書『芸文類聚』などに夙にその佚文が見える。⑾『十六国春秋』北涼録(太平御覧巻一二四、偏覇部八、北涼沮渠蒙遜)「三年二月、與西秦通和。遜西巡、遂循海至盬池、祀西王母寺。寺中有玄石神図、命中書侍郎張穆賦焉、銘之于寺前。」⑿『十六国春秋』前涼録(太平御覧巻一二四、偏覇部八、張駿)に拠れば、四代文王張駿も張茂四年に「使持節・大都督・大將軍・涼州牧・西平公」の称号を賜る。⒀『晋書』巻86張軌伝、中華書局pp2235-8。⒁初、河右不生楸、槐、柏、漆、張駿之世出、取於秦隴而植之、皆死。独酒泉宮之西北隅有槐樹生焉、李玄盛著槐樹賦。⒂関尾2011でも、当該画像磚の成立年代は墓の構造や陶器等の副葬品からの類推に拠るほかないとし、成立年の明言は避けている。⒃他地の祥瑞図にない稀な作例として、『山海経』の兒魚・万鱣のほか汲冢書『穆天子伝』にみる穆王の天下周遊を扶けた「黿鼉」があることも見逃せない(注7(4)にもみえる)。晋~前涼の郭璞・張駿の場合同様、『穆天子伝』と一体化した『山海経』受容であった、と言える。⒄前涼と敦煌漢人豪族の関わりは榎一雄『敦煌の歴史』1980年所収、佐藤智水「五胡十六国から南北朝時代」、佛爺廟湾墓群に敦煌漢人豪族の一・張弘一族の墓が含まれることは関尾「敦煌の古墓群と出土鎭墓文」『資料学研究』4、2007年参照。⒅佛爺廟湾晋墓の鯢魚と郭璞『山海経』注との関わりは殷2008年、森和「『山海経』とその周縁に位置する出土簡帛」『【増補改訂版】中国の神獣・悪鬼たち─『山海経』の世界』「補論」東方書店2013年。⒆北村永「敦煌・嘉峪関魏思墓に関する新収穫」『西北出土文献研究』2009年特刊に1001号墓の最新の調査報告がある。⒇松田稔「災異と休祥」『『山海経』の基礎的研究』笠間書院1994年参照。 『初学記』引文に「行」を「従」に作るのに随う。 松岡正子「人魚伝説─『山海経』を軸として」『中国文学研究』8、1982年。氏は漢代には五帝として崇められることとなった顓頊・后稷も、本来『山海経』西方仙境の蘇る半人半魚の神であったとする。

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