鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 527 ―― 527 ―㊽ 太田喜二郎の研究─雑誌『徳雲』をめぐる京阪神文化人ネットワーク─研 究 者: 京都府京都文化博物館 学芸員  植 田 彩芳子 京都大学人文科学研究所 教授  高 階 絵里加 京都市美術館 学芸課担当課長  中 谷 至 宏はじめに昭和4年11月に創刊された雑誌『徳雲』は、現在ほぼ忘れられた雑誌である。貴志弥右衛門という関西の数寄者の編集になるこの雑誌は、昭和初年という茶道雑誌類が一番の充実をみせた時期のものである。『徳雲』については、熊倉功夫氏による「教養としての茶道 近代の茶の湯12」(『日本美術工芸』456号、昭和51年9月)のほかは、その詳細について触れた研究を見つけることは難しい。熊倉氏によれば、『徳雲』は「茶の湯だけにとどまらぬ、広い教養主義をとっている点。内容が、当時としては望みうる最高の執筆者をならべて非常に高度であること。そのほか、主催者の数寄者ぶり、季刊という形態の相似、ほぼ同じ時期に主催者の死とともに終刊したこと」などの点で、翌5年に西川一草亭によって創刊された雑誌『瓶史』とよく似ているという。実際、『徳雲』には、内藤湖南、濱田青陵、植田寿蔵、西田幾多郎といった錚々たる執筆陣が名を連ねている。一見、繋がりが見えにくいかもしれないが、近代京都の洋画家である太田喜二郎とその友人の東洋史学者である羽田亨が、この雑誌『徳雲』の編集に関わっていた。また今回の調査で、太田宛の書簡類を整理したところ、雑誌『徳雲』に関するものがいくつも見つかった。太田はどのようにして雑誌『徳雲』に関わるに至ったのであろうか。本稿では、太田と貴志弥右衛門、羽田亨の関係を明らかにし、貴志の雑誌『徳雲』に太田喜二郎が積極的に関わっていた様子を検討していきたい。一.太田喜二郎と貴志弥右衛門、羽田亨(一)太田喜二郎とはまずは近代京都の洋画家である太田喜二郎について、その概略を述べる(注1)。明治16年(1883)12月1日、太田は京都市上京区西陣の織物商の家に生まれた。小学校に入学した頃から絵が好きで、京都府尋常中学校(明治32年に京都府立第一中学校と改称)に進学すると、在学当時の図画教員であった矢野倫眞に学び、洋画を志すようになる。

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