鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 528 ―― 528 ―(二)貴志弥右衛門とは中学時代の親友が岩村透の弟という縁もあり、明治35年の中学卒業後には東京へ出て、東京外国語学校で英語を学ぶと同時に、白馬会洋画研究所に通う。翌年東京美術学校に入学し洋画を学ぶ一方、東京外国語学校英語科を卒業すると仏語科に入学し、フランス語を学んだ。留学を前提にしていたのだろう、画学修業と並行して語学を身につけた太田は、明治41年に卒業すると同時にベルギーに留学をする。ベルギーでは、エミール・クラウスの指導を受け、またガン市立美術学校でも学んでいる。留学中にヨーロッパ各地を旅し、大正2年(1913)9月に帰国する。帰国後の太田は、次々と明るい色彩の点描による作品を発表し、受賞を重ね、脚光を浴びるようになる。太田の点描表現には賛否両論あったが、文展では大正5年には推薦となり、その地位を確固としていった。大正6年8月、太田は京都市立美術工芸学校・絵画専門学校両校講師を嘱託され、大正9年には京都帝国大学工学部講師を嘱託される。しかし、順風満帆に見えるこの頃、大正6年頃を最後に、太田は点描表現を棄てて、平たく塗るような描き方へと画風を変える。その後も帝展、新文展、日展と官展を中心に作品発表を続けた太田は、関西洋画界の中心人物の一人として活躍を続けた。その一方で、濱田耕作、羽田亨、藤井厚二、須田国太郎といった京都帝大関係者とも親交を持った。昭和26年10月27日、脳溢血で死去。享年67歳。一方、貴志弥右衛門(1882~1936)(注2)は、明治15年2月4日、大阪市東区心斎橋筋の洋反物商の長男として生まれた。幼名は奈良二郎。大阪市東区船場尋常小学校から大阪府立第一尋常中学校を経て、第三高等学校に進学する。明治37年、東京帝国大学文科大学(哲学科)に入学し、美学を専攻、卒業後は大学院へ籍を置いた。明治41年に結婚、44年には京都大徳寺に通って参禅し、また藪内家元に就いて茶道を修めた。羽田亨はこの頃の弥右衛門のことを「大阪の家庭に在つて悠々読書境涯を楽しむ旁 頗る茶道に心を傾けた 君が斯道に精進したのは固より風流韻事に隠れる為では無く 之を以つて情趣を洗練し人生の向上を資する訓練であると考へたに由るのである 従って之を広く世間に奨め社会教化の一助たらしめようとする事は君の熱心なる念願であった」(注3)という。大正5年、子女の教育のため、芦屋浜に別邸を建てる。大正7年秋に芦屋に転居し、大正9年には今北乙吉設計の洋館を新築。同年、甲南高等女学校名誉教授を嘱託されるが、11年には辞す。大正11年には父弥右衛門が京都妙心寺に徳雲院を再建したが、

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