鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 529 ―― 529 ―(三)羽田亨とは翌年病没したため、弥右衛門は42歳の時、奈良二郎から改名する。昭和3年、大阪肥後橋の旧宅の茶室が市の道路拡張計画のために取り払われることになると、弥右衛門はこの茶室を京都妙心寺徳雲院の境内に移築することにした。翌年、この茶室を聴雪居と名づけ、「一般の人々に開放して茶道の精神を汲ませることとし」(注4)たという。さらには徳雲会を起こし、同年から雑誌『徳雲』を主宰した。泉松庵聴雪と号して、茶湯三昧の生活を送った素封家、近代数寄者の一人として知られる。息子は、音楽家の貴志康一。昭和11年10月7日、丹毒症で死去。享年55歳。羽田亨(1882~1955)(注5)は、明治15年5月15日に京都府中郡峰山町に生まれた。京都府立第一中学校を卒業後、第三高等学校を経て、東京帝国大学に学び、40年に東洋史学科を卒業する。内藤湖南に招かれて新設の京都帝国大学東洋史学講座の大学院に移り、蒙古西域史の研究に従事する。明治42年講師、大正2年に助教授となる。ヨーロッパに滞在して、西域文書を調査研究して帰り、13年教授となる。濱田耕作総長急死のあとを承けて、昭和13年から20年まで京都帝国大学総長を務める。昭和20年、貴族院議員に列せられた。ほかに、東方文化研究所長・東方学会会長などを歴任し、文化勲章を受章、フランスよりジュリアン賞・レジョン=ド=ノール賞を贈られた。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、さらに満州・蒙古・西蔵・ペルシアなどの語を学んで、ソグド・ウイグル・トカラなどの古文献を読解することで、従来不明であった西域の歴史を解明し、特にシルク=ロード上の東西文化交流の跡を明らかにした。著書に『西域文明史概論』『西域文化史』などが知られる。昭和30年4月13日、京都で病没した。享年72歳。二.太田喜二郎と貴志弥右衛門(一)羽田亨を通じての出会い太田喜二郎と羽田亨が出会ったのは、京都府立第一中学校在学時である。二人の交友について、羽田は次のように回想している。「彼(太田のこと)と僕とは中学時代からの同友であつたが、僕の方が一年の年長で、学年も一級違いであつたためか、その頃には格別親しいつき合いもしなかつた。それが東京に出て、彼が美術学校に、僕が大学に居つた時から、かなり離れた下谷と本郷とに下宿しながら、三日にあけず訪ねるようになり、それでも足

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