― 530 ―― 530 ―(二)貴志弥右衛門の「子供の家」りないで葉書を取替わすような有様になつた。」(羽田亨「太田喜二郎の死」『新大阪』昭和26年11月11日)また、羽田は貴志と出会った時のことも次のように述べている。「君(貴志のこと)と相識つた初めは、京都の第三高等学校に入学した明治34年9月である。高等学校時代には格別親しくしたといふ程ではなかつたが、(中略)それが明治37年東京に出て赤門をくゞるやうになつてから、急に親密の度を増すことになつた。」(羽田亨「貴志君を憶ふ」『徳雲』第5巻第4冊、昭和11年12月)太田喜二郎と貴志弥右衛門が出会ったのは、明治41年2月、太田が神戸から船でベルギーに出立するとき、羽田亨が第三高等学校時代以来の友人である貴志を誘って船まで見送りに来たのが、初めてか二度目のことであったと、太田は回想している(注6)。さらに、帰国直後の大正2年冬、太田は貴志に、貴志の父である先代貴志弥右衛門の肖像を描くよう頼まれて、大阪桜宮へ4、5回通ったという(注7)。なお、この肖像画は現在所在不明である。こうして、羽田を通じて、太田と貴志の交友が始まるのである。貴志弥右衛門は、大正7年に一家で芦屋に転居した。大正9年には、それまでの日本家屋に今北乙吉設計の洋館が新築された。この洋館は子ども達の情操教育のために音楽室やアトリエを備え、「子供の家(La Maison des Enfants)」と名づけられた。洋館の玄関にかけられたプレート〔図1〕を作ったのは、太田喜二郎であった。『太田喜二郎日記』(個人蔵、以下『日記』と記す)の大正9年9月8日の項には「貴志君の「小供の家」額を造る」とあり、同年9月16日の項には「「子供の家」額貴志君へ発送」とあり、制作日がわかる。また、新築された洋館階段の踊り場付近と2階音楽室に設置されたステンドグラス図案は、太田がデザインした。その図案原画も現存している〔図2~3〕。このステンドグラスは太田がデザインしたものを、宇野沢組ステインドグラス製作所の磯野為造が製作したものである。大正8年の太田の『日記』には、9月22日の項に「夜ステンドグラス原稿を作る」、9月23日の項に「早朝貴志君新築ステンドグラス図案を作る 午前上賀茂より書留にて発送す」とあり、制作日時の詳細がわかる。
元のページ ../index.html#542