― 531 ―― 531 ―太田は、貴志邸の様子を次のように語っている。「貴志君は新築洋館の二階に自分の書斎を取つて天井と壁との間に横長の斜面を作り、八枚のパネルを並べるのだそうで、八枚のパネルには子供の家にふさはしい図を描くことを私に話した。…(中略)…パネルを早く描けと催促が度々来た。私は裸体の子供を一人づゝ描いて眼耳鼻舌身意の六感はすぐ出来たが第七末耶識(思量)第八阿頼耶識(蔵識)の表現には困つた。階段と応接室にステンドグラスを嵌めて明るく楽しく健康な家にする為めに貴志君は苦心した事はもちろんである。書斎にはダンテの胸像を応接室にはピアノを置いた。」(注8)太田は裸体の子供による寓意像を8枚描き、貴志はそれを書斎に飾った。そして、貴志家の娘は家を出る時、一枚ずつ好きなのを選んで新しい額に入れて携えていくことにしていたという(注9)。なお、書斎に置いたというダンテの胸像は、太田の友人で彫刻家の武石弘三郎が作った作品であるという(注10)。また、貴志の家には太田の仲介で購入した黒田清輝の《赤き衣を着たる女》(明治45年)や藤島武二の《紫陽花》(大正10年)などが飾られていたという(注11)。三.雑誌『徳雲』をめぐる人たち(一)雑誌『徳雲』について雑誌『徳雲』は、昭和4年11月に貴志弥右衛門によって創刊された雑誌で、昭和11年12月の第5巻第4冊で終刊している。『徳雲』の表紙絵〔図4〕を描いたのは、太田喜二郎である。昭和4年7月7日の太田の『日記』の記述によると、その日の夕方に貴志が太田を訪ねて『徳雲』の表紙絵の制作を依頼し、太田は表紙絵制作に取りかかり、同年8月29日の『日記』には「午後、徳雲表紙ヲ描キ夕刻羽田君方ヘ届ケル」と記されている。太田は創刊当初から『徳雲』の編集にも関わったことが『日記』の記述からわかる。昭和4年8月21日の『日記』には「午後三時羽田君来四時過ギ貴志君来 木屋町神田川ニテ夕飯、十六夜ノ月東山ヨリ出ヅ 徳雲ノ編輯会議ヲ開ク 九時半京阪ニテ貴志君帰西ヲ見送リ帰ル」と記されており、太田と貴志、そして羽田亨の三人で『徳雲』の編輯会議をしていた様子がわかる。羽田亨「貴志君を憶ふ」(『徳雲』第5巻第4冊、昭和11年12月)によると、雑誌『徳雲』の創刊の経緯は、次のようであった。貴志の持論は「現在社会人心の堕落は、世
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