― 532 ―― 532 ―(二)『徳雲』の執筆陣人の余りにも教養に乏しい点に基因する。今の世を済ふに最も必要なことの一つは、人の教養に資する雑誌を発行することである」というものであり、その持論を元に貴志は羽田に雑誌発行を実現するための協力を求めていたが、羽田は協力を渋り、そうした雑誌を出すのは困難だとしてうやむやにしていたという。ところが、「昭和4年の9月になつて、またもやこの計画を齎し、おまけに今度は無類の積極主義者太田(喜)君を引きつけて陣容を整へ、何でも賛成しろと肉迫して来た」ので、遂に賛成して手伝うことになったという。そして、「先輩知友の間に援助を求め、その11月に徳雲創刊号を出したのであつた」といっている。貴志弥右衛門は『徳雲』創刊号(昭和4年11月)の冒頭に「教養の辯」という一文を寄せているが、貴志の主張は、熊倉氏が指摘する通り、大正教養主義の強い影響にあると考えられる。幅広い教養による「人格向上」を目指した貴志は、雑誌『徳雲』に錚々たる知識人たちの記事を掲載する。『徳雲』の執筆陣を列記すると、〔表1〕のようになる。内藤虎次郎(湖南)、濱田耕作(青陵)、植田寿蔵、和辻哲郎、西田幾多郎など京都帝国大学教授陣が名を連ねている。執筆回数の多い人物を何人か見てみよう。藤井厚二は、京都帝国大学建築学科で教授を務めた建築家である。太田喜二郎は京都帝国大学工学部講師として建築学科でデッサンなどの指導をしていたので、二人は同僚であった。太田と藤井は親しく交遊し、太田は自邸の設計を藤井に任せるなどもしている(注12)。藤井が貴志と懇意になったのは、『徳雲』が創刊された頃からのことだというので、おそらく太田の紹介によるものと考えられるが、その後、藤井の制作している焼物「藤焼」を通じて貴志と藤井は意気投合し、交友を続けていたという(注13)。そして、貴志と藤井、太田はしばしば茶会をともにした。例えば、太田の描いた《寿月庵茶会絵巻》(昭和10年、個人蔵、〔図5〕)は、昭和10年4月12日に開催された貴志弥右衛門の茶会に、太田、藤井、野村得庵らが招かれ参加した時の様子を描いている。天沼俊一が『徳雲』に執筆することになったのも、京都帝国大学建築学科の同僚であった太田が仲介しているものと考えられる。天沼は建築史家で、奈良県技師、京都府技師をへて、大正12年に京都帝大教授となった。各地の古建築を実地調査し、日本建築史のはじめての通史「日本建築史要」をまとめたことで知られる。天沼は「不思議な御縁で、嘗て貴志さんの主宰されてゐた雑誌〔徳雲〕へ、妙心寺の建築の事をか
元のページ ../index.html#544