― 533 ―― 533 ―いた」(注14)と記しているが、貴志の訃報は太田から聞いたとも述べており、間には太田が入っていたように思われる。『徳雲』に「掃き寄せ」というエッセイを連載した秋月左都夫は、明治から大正時代に外交官として活躍した人物である。外務省にはいり、釜山領事、ロシア公使館書記官、オーストリア大使などをつとめ、大正8年第一次大戦のパリ講和会議に全権団顧問として出席している。秋月は、太田がベルギーに留学していた時の駐ベルギー公使であり、以後二人は親しく交友した。黒田清輝も「白耳義に留学して居た時に当時の公使であつた秋月左都夫君などは非常に太田を愛して居る」(注15)と述べている。こうしたことを踏まえると、秋月が『徳雲』に寄稿したのは太田の紹介によると考えられる。井川定慶は、仏教史、特に浄土宗史を専門とし、仏教大学教授を務めた人物である。大正12年、京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業している。岡崎文彬は日本の造園家、造園学者、林学者と知られる。昭和6年に京都帝国大学農学部林学科を卒業し、同時に同大助手となっている。昭和8年に欧米を歴訪し、西洋庭園史の研究に取り組み、昭和11年に帰国後、京都帝国大学に復帰した。二人と貴志、太田、羽田との直接的な交友については判然としないが、京都帝国大学を通じた関係で、知り合ったのであろう。また、竹内勝太郎のような詩人もいる。京都市に生まれた竹内は、旧制中学2年で中退し、夜学でフランス語を学んだ。初め三木露風に師事するが、のち離反し、昭和3年に渡欧する。帰国後、象徴主義の詩集『明日』(昭和6年)を刊行するなどしたが、昭和10年、正当な評価を受けぬまま黒部峡谷で遭難死した。芸術論、芸術民俗学などにも注目すべき著作が知られている。竹内と貴志、太田、羽田との関係については、詳細はわからない。早野二郎(臺氣)は、大阪の船場生まれの歌人である。19歳頃から和歌を学び、大正11年に佐々木信綱主宰の『心の華』に入会する。昭和5年に『帚木』にも入り、昭和9年には『日本歌人』創刊に参画するなど、旺盛な創作活動を展開した。戦後は臺氣と号して、活動を続けた。早野二郎は、貴志の母・治子の親戚であり、貴志と親しい間柄だった(注16)。濱田耕作が「君(貴志のこと)と会つて親しく話しする機会を得たのは、私が京都へ来てから後羽田君や太田画伯との関係などによつて始まつた様に記憶する」(注17)と語っているように、京都帝国大学関係者が『徳雲』に寄稿したのは羽田と太田との関係によるところが大きいようである。
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