鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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注⑴太田喜二郎の略歴は、拙稿「太田喜二郎研究─その画業と生涯」(並木誠士編『近代京都― 534 ―― 534 ―太田自身はほとんど『徳雲』に執筆していないようであるが、仲介役をし、運営を手伝っていた。『徳雲』は太田と羽田の人脈を駆使し、京阪神の錚々たる文化人ネットワークを築いたのである。おわりに以上、雑誌『徳雲』を中心に、太田喜二郎と貴志弥右衛門、羽田亨の交友関係、雑誌『徳雲』への太田の関わりの様子を明らかにしてきた。太田と羽田は中学時代の同窓で、貴志と羽田は高校時代の同窓であった。彼らは上京後、親しくなり、貴志と太田は羽田を通して知り合い、親しくなった。雑誌『徳雲』の創刊にもこの三人で関わり、太田や羽田の人脈により、『徳雲』執筆陣には京都帝国大学教授陣を中心とした錚々たる面々が並んだ。こうして非常に高度な内容をもつ雑誌となった『徳雲』は、貴志の教養主義的な方針と合致し、貴志が没するまで続いた。従来、点描画を描いた洋画家としての側面ばかり注目されてきた太田喜二郎であるが、このような京阪神文化人ネットワークの一翼を担う人物でもあったのである。美術工芸の制作・流通・鑑賞』思文閣出版、2019年3月刊)を参照。⑵貴志弥右衛門の略歴は、静枝編「貴志弥右衛門・渡邊照子 年譜」(『徳雲』第五巻第四冊、昭和11年12月)、羽田亨『聴雪居由来記』(昭和28年)を参照。⑶羽田亨前掲注⑵。⑷羽田亨前掲注⑵。⑸宮崎市定「羽田亨」『国史大事典』吉川弘文館、2010年(JapanKnowledge公開)。⑹太田喜二郎「貴志君の追憶」『徳雲』第五巻第四冊、昭和11年12月。⑺太田喜二郎前掲注⑹。⑻太田喜二郎前掲注⑹。⑼太田喜二郎前掲注⑹。⑽毛利眞人『貴志康一 永遠の青年音楽家』国書刊行会、平成18年。⑾毛利眞人前掲注⑽⑿太田と藤井の交友については、拙稿「太田喜二郎と藤井厚二」(『太田喜二郎と藤井厚二─日本の光を追い求めた画家と建築家』青幻舎、令和元年5月)を参照。⒀藤井厚二「貴志さんと染付」『徳雲』第五巻第四冊、昭和11年12月。⒁天沼俊一「思ひ出で」『徳雲』第五巻第四冊、昭和11年12月。⒂黒田清輝「美術家には求め難い性格─太田喜二郎君の芸術」『美術』第1巻7号、大正6年5月。(文責:植田彩芳子)

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