鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 544 ―― 544 ―よって形成された画廊のネットワークの拠点のひとつであったためである。画廊同士のこのネットワークは、画廊が海外からアーティストを呼びたい場合、近くの都市の画廊に声をかけ、展覧会を順番に開催すれば、作品の輸送費を抑えることができるという仕組みであった。こうしてログズデールが培った国際的な視野こそが、その後、イギリスのアーティストが世界的に知られていく状況につながったのである。リッスン・ギャラリーが注目されたのは、1980年代初頭、有機的な形態を取り入れた新たな彫刻の動向「ニュー・ブリティッシュ・スカルプチャー」の中心となったことである。トニー・クラッグ、リチャード・ディーコン、ビル・ウッドロー、アニッシュ・カプーアをはじめとする代表的なアーティストたちを紹介したのがリッスン・ギャラリーであった。まもなくロンドンのICA美術館でこの彫刻家の特集が組まれたのち、ブリティッシュカウンシルの後援によって海外の美術館でも企画展が開催されるようになる。また、1982年にはヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタ7といった国際美術展にイギリスのアーティストが参加し、日本でも「今日のイギリス美術」展が東京都美術館をはじめとする全国の美術館で開催され、ディヴィッド・ナッシュやトニー・クラッグなど、多数のアーティストがまとめて紹介される初めての機会となった(注13)。「ニュー・ブリティッシュ・スカルプチャー」が一種のムーブメントとなり、国外へ向けて発信された背景に、ヘンリー・ムーアやアンソニー・カロといった20世紀の古典的な彫刻の系譜に位置づけようという力学が働いていたという点は、すでに多くの指摘がある(注14)。また、1984年にはテート美術館によってターナー賞が創設され、彫刻を手掛けていたリッスン・ギャラリーのアーティストが次々と受賞したが、新しい動向を発掘し育てるという画廊の活動が、「イギリスの現代美術」を確立させようという動きに応える形となっていたことは見過ごせない点である。ここで、リッスン・ギャラリーが70年代までに紹介していた国内外の様々な実験的かつ批評的な芸術実践が、後にリッスンで活躍していく作家たちに与えた影響についても考えたい。例えば、トニー・クラッグは1979年にリッスン・ギャラリーで初個展を行ったが、当時の彼の作風は、プラスチック片や廃材を、自らの体のシルエットなど、何らかの形を象って床に配置するというものであった。こうしたクラッグの作品は、リチャード・ロングなどのアースワークと同じように、人間の手を加えずに自然と向き合う行為から出発しているが、そこからさらに一歩踏み出し、有機的な素材を成り立たせている物質と、物そのものの形との関係への探究をさらに深めている。

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