鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 549 ―― 549 ―㊿ 日本近代における浮世絵受容に関する研究  ─系譜的研究を中心に─研 究 者:東海大学 課程資格教育センター 准教授  篠 原   聰はじめに浮世絵は、江戸時代に狩野派を頂点とする絵画世界のヒエラルキーの中で、卑俗なジャンルを扱い、当代の風俗、役者や遊女など、狩野派が排除したテーマをその中心主題とすることで近世初期風俗画から発展して成立した。ヒエラルキーの最も下層に位置する浮世絵師は美人画、役者絵、名所絵、風刺画などの多彩なジャンルを開拓し、幕末から明治にかけては残酷絵や光線画、時局報道絵なども手がけて人気を博した。江戸庶民の生活風俗や喜怒哀楽のメンタリティーを、西洋リアリズムとは全く異なる理論で描き出した浮世絵は、しかしながら日清、日露戦争の頃を境に急速に衰退していったとされる。浮世絵の命運を握ったのは、美術の制度ではなく庶民の関心であり、大量消費、大量生産にまつわる印刷技術やメディアの動向だったといえ、受容層である庶民の意識の変化も影響したと思われる。浮世絵は国家主導の美術振興、輸出振興のいずれの対象にもされなかったし、庶民の娯楽の中の日本は帝国日本の表象にそぐわないと見なされたのも当然であろう(注1)。他方、制度としての美術が確立する明治以降も浮世絵師は生きていたわけで、水野年方(1866-1908)のように日本画家へと転身を果たした画家もいた。事実、明治維新以降、浮世絵の系譜を継ぐ画家たちは、挿絵画家や日本画家として生き残る道を模索し、鏑木清方(1878-1972)のように官展を代表する花形作家として後進の育成にも尽力する画家が活躍する時代を迎えたのである。鏑木清方(注2)は、挿絵画家から出発して日本画家として大成した数少ない画家の一人である。師・年方は歌川国芳の孫弟子にあたるので、国芳、芳年、年方、清方という師承の系譜を辿れば、そこには江戸から明治にかけてのもっとも正統な「浮世絵」の流れをみることができる。しかし、鏑木はその正統性や伝統をことさら強調するようなことはなかったし、従来、日本近代という時代区分における浮世絵受容のあり方を総合的に検証する研究自体が遅れていたこともあり(注3)、鏑木が近代以前の浮世絵をどのように受容し、継承していったのかについては不明な点が多い。本稿では、日本近代における浮世絵受容のあり方の一端を解明するべく、明治以降の浮世絵・挿絵系出身の画家の中でも鏑木清方の浮世絵受容のあり方を考察し、鏑木清方とその弟子たちを系譜的に「浮世絵画派」と捉える新たな研究視角を提示する。

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