― 550 ―― 550 ―1.鏑木清方の浮世絵の蒐集と研究鏑木と浮世絵との関係性について言及した同時代資料として、松岡映丘「浮世繪式を超脱して」や吉川霊華「江戸と云ふものを復活させて」、「完成された浮世絵(鏑木清方論)」、山中古洞「歌麿再來の清方君」などの近しい画家たちの評言がある(注4)。また、小林忠氏の評言をはじめ内藤正人氏や大塚雄三氏の論考、近年では宮﨑徹氏や西山純子氏の考察などがある(注5)。鏑木が浮世絵全般に対して比較的広範な興味関心を示しはじめたのが明治30年代以降であること、浮世絵と本格的に向き合い、その蒐集や研究に着手したのが明治40年代以降であること、挿絵画家から本画家へと転向する過程の諸作に浮世絵風の趣を濃厚に伝える作品が確認できることなどは研究者の一致する見解である。また、鏑木の浮世絵蒐集に関しては、「勝川春章真蹟桜下遊女之図」「東京 鏑木清方蔵 明治四十五年四月求之」と箱書きされた画幅を鏑木が所蔵していたこと、勝川春章の肉筆画《婦女風俗十二ヶ月》の内「杜鵑」などの模写や、歌麿の《当世踊子揃》の内「三番叟」「鷺娘」「道成寺」などの模写があり、《当世踊子揃》の模写三図にはそれぞれ「三十九年二月写」の年記があることなどが知られている。これらは鎌倉市鏑木清方美術館や「清方ノスタルジア」(サントリー美術館、2009年)、「鏑木清方と江戸の風情」(千葉市美術館、2014年)などでも展示され、多くの人の知るところとなった。今回の調査で、「浮世絵派画集」と思われる帙入りの大型本数冊と、肉筆では鳥文斎栄之の「屏風」、勝川春章の「花魁」と栄之の「隅田川」の掛幅を鏑木が所有していると大正3年発行の『美術新報』が伝えていること、大正中期には鏑木清方が浮世絵の収集家としても知られていたことを示す資料があることなども判明した(注6)。「東都錦繪數寄者番附」〔図1〕は、浮世絵研究家として知られる井上和雄が大正9年に雨石斎の名前で伊勢辰から発行したで番付で、大正中期の東京を中心とする浮世絵の蒐集家や研究者、浮世絵商の主な顔ぶれを知ることができる資料だが、上段部に蒐集家の前頭として鏑木清方と山村耕花の名前が確認できる。鏑木の浮世絵蒐集を示唆する弟子の言説もある(注7)。上述の番付が発行される前年の大正8年発行の雑誌『中央美術』のなかで門井掬水は「先生は實に塾生何かと親身も及ばぬ程に愛され、面倒を見られに塾生各自の個性天分を自由に伸びるやう御指導下さつた。塾生の出て、葉が生じ、軈て美しい花の咲く日を楽しみ、良き實を結ぶやと、價ひに係はらず種々の肥料─参考品をお集め下された結果、生の私達は、培はれ、刺戟され、暖き師が恵みの露を頂いて、漸く葉て、一つの生命を支え得たのです」と述べている。引用文中の「参考品」のなかに浮世絵が含まれているとすれ
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