― 551 ―― 551 ―ば、この文章は鏑木が濱町に引っ越す以前を対象としているので、明治後半にはすでに鏑木は浮世絵蒐集を始めていたことになる。濱町以後について執筆した伊東深水は「先生が常に自己の養分を吸収する事を心掛け、参考のために東西を分たず、材料の蒐集に努めらるゝ事がかなり大きな原因をなしてゐると思う」と記しているが、「材料の蒐集」には当然、浮世絵も含まれていたことだろう。2.存在証明としての浮世絵調査の一環で、明治30年頃の発行と思われる『教育歴史画譜』を収集した〔図2〕。水野年方の門下生の制作による木版画36葉を収めた画譜で、鏑木は「小松重盛」と「太田道灌」の2葉を制作している〔図3、4〕。歴史人物を主題としてはいるものの、師匠のもと、兄弟弟子たちとともに版下絵の修練を重ねる鏑木の姿をそこに看取することができる。挿絵画家としての地歩を固め、その仕事で多忙を極めるのが小説家・泉鏡花と邂逅した明治34年以降であることなども考え合わせると、鏑木が本格的に浮世絵の蒐集と研究に着手し、その成果を本画に反映するようになるのは、やはり明治40年以降のことと思われる。事実、自作に対する浮世絵の関与を示唆する鏑木の言説は、やや遅れて大正4年頃から散見されるようになる。「私の経歴」(注8)がその嚆矢で、入門当初は「浮世繪といはれるのが厭で、社會畫といふ名を付けて自ら慰めて居た」ことなどを吐露しつつも、第9回文部省美術展覧会(文展)で2等賞首席を受賞した《霽れゆく村雨》を自らの「出世作」と位置付け、鈴木春信への傾倒を表明している。他方、今回の調査で判明した大正3年1月発行の新出資料「版画生活の回顧」〔図5、6〕の中で鏑木は、明治以降の小説の口絵、挿画の仕事に携わった近しい画家たちの仕事や挿絵画家としての自身の仕事を回顧している(注9)。その行間には挿絵画家から本画家への転身を試みる鏑木の高揚感すら感じとれる。実際、同年の大正3年に、鏑木は第8回文展出品作《墨田川舟遊》で2等賞を受賞し、大正4年の第9回文展《霽れゆく村雨》(2等賞首席)、大正6年の第11回文展出品作《黒髪》(特選第1席)と受賞を重ね、画壇中央に進出してゆくのである。大局的にみれば、これら文展の諸作には挿絵画家時代から取り組んでいた西洋絵画の研究の蓄積などとともに、すでに言及した通り、明治末以降の鏑木の浮世絵研究の成果が反映されているとみてよいし、浮世絵風美人画の確立により鏑木が官展の人気画家としての地歩を固めたことは多くの研究者の一致する見解でもある。もちろん、今後さらに個々の作品論を通して鏑木の浮世絵研究がどのように実作品に反映されて
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