― 552 ―― 552 ―いるのかについて、より丁寧に検証する作業は必要である。他方、個々の作品論を積み重ねるだけでは解明できない「浮世絵受容」をめぐる本質的な問題もある。それは、鏑木清方が浮世絵の系譜を継ぐ近代画家として生涯あり続けた、という自明の事実である。鏑木にとって浮世絵とは、挿絵画家から本画家へのステップアップのためのツールでも、画歴を彩るアイコンでもなく、近代の画家としての自らの存在を証明し、保証するアイデンティティとして生涯あり続けた。鏑木が他の日本画家と一線を画す所以である。3.「新浮世絵講義」と鏑木清方ところで、鏑木が本格的に浮世絵の蒐集と研究に着手し、文展で受賞を重ねはじめた同じ頃、「新浮世絵講義」という通信美術講座を担当していた事実はあまり知られていない(注10)。田口掬汀が大正2年に創設した日本美術学院の『日本画講義』である。この講義の概要や講師名、科目名の変遷等については、近年、鎌倉市鏑木清方記念美術館が美術雑誌『中央美術』と『読売新聞』に掲載された記事や広告を丹念に調査し『鏑木清方と金鈴社』図録(鎌倉市鏑木清方記念美術館、2019)にまとめている。本論に関する部分のみ要点を整理すると、同図録は、大正2年の秋に開講した段階から講師陣の中に鏑木清方の名前が確認できること、大正4、5年頃は「新浮世絵講義」、大正8年以降は「美人画講話」が講義名に用いられていること、「美人画講話」(大正2年頃)、「新浮世絵講義」、「美人画講話」(大正13年以降)がテキストに用いられていることを明らかにしている。従来、日本美術学院の通信美術教育に関しては、現存するテキストに出版年を示す奥付がなく、分冊販売されていたものが後に合本されるなど、形態も多数存在するため、その全容については不明な点が多かったが、今回の調査で新たに「大正2年11月25日創刊」の奥付がある『新日本画講義』〔図7、8〕のテキストの存在も確認された(注11)。いずれにしろ重要なのは、まず講義名が当初より「新浮世絵講義」であった可能性が高いこと、にもかかわらずテキスト名には「美人画講話」が最初に用いられ、大正4、5年から8年前後まではこれに代わり「新浮世絵講義」が用いられていたことである。大正4年は鏑木清方の門下生を中心とした郷土会が結成された年で、大正8年は帝国美術院美術展覧会(帝展)が発足し、鏑木がその審査員に任命された年である。したがって、この間、「美人画」ではなく「新浮世絵」という名称が、講義テキストのタイトルに用いられていたことになる。自作に対する浮世絵の関与を示唆する鏑木の言説が大正4年頃から散見されはじめることについてはすでに述べた
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